いちいち書くのも、もはや はばかられるが、相変わらず起きている 時はずっと仕事をしているなり。 今週末はひたすら机にしがみついて 仕事をする予定なり。 光文社の新海均さん、 編集者の松崎之貞さんにお目にかかる。 吉本隆明さんにお会いする件について。 新海さんは『家族のゆくえ』を はじめとする吉本さんの著作を担当し、 松崎さんは徳間書店に在籍されていた時に 吉本さん担当だった。 大思想家のひととなりや、 夏休みの過ごし方など、いろいろ と教えていただく。 NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』 の収録は、将棋の羽生善治さん。 いつもの102スタジオかと思って すたすた歩いていたら、 どうも様子がヘンで、あれ、 と呆然としていたら、向こうから 住吉美紀さんが来た。 「今日、スタジオどちらでしたっけ?」 「あれ、102じゃないのですか。私も 知らない・・・」 と言っているうちに住吉さんが台本を
どんな言葉が心に残るかというのは、 無意識の生態系のなせるわざだから、 もともと自我のコントロールできる 問題ではない。 ここのところ、デカルト的自我を 否定する人たちが語る言葉のある文脈が 気になっているが、 デカルト的自我がくだらないものならば、 それを単純否定する言説もくだらない んじゃないか。 世界が多彩な同時並列的要素から出来ている くらいのことは、 物理主義ですでに織り込み済みである。 だからこそデカルト的自我が 驚異として立ち現れてくるわけだが、 どうも時々議論が逆さまになる。 それはそうと、河合隼雄さんが 暫く前に言われた「中心をずらさないでいること」 ということがとても大切な言葉として残っている。 世の中には、よいもの、心を惹かれる ことは沢山あるけれども、 それに運び去られてはいけない。 自分の魂のありかは、きちんと 押さえておかなければならない。 伊藤若冲の『動植綵絵
仕事上の必要があり、遅ればせながら 「ダ・ヴィンチ・コード」を読む。 あっ、と思った。 途中で、どんどん視点(語りの一人称) が変わっている。 『プロセス・アイ』 は視点の変化が沢山出てくるが、これを、 「小説ではあまりないこと」とか、「特定の 一人称でずっと行くのが普通」と複数の人に 言われた。 真実はどこにあるんだろう。 私小説の伝統が根強い日本では、 ということか。 しかし、源氏物語まで遡ると、 特に断ることなくどんどん人称が入れ替わって、 動詞で区別しなければならなくなったりする。 世界という鏡はもともと沢山の主観性の 断片に分裂している。 だから、人称が入れ替わったって、 いいじゃないか。 男が、コーヒーにクリームや砂糖を たっぷり入れても、いいじゃないか。 「ダ・ヴィンチ・コード」は一神教の 世界観に基づいているが、 人格神が世界を見下ろしているという メタファーがあった方が、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く