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日本文化とことばに関するgitanezのブックマーク (4)

  • 日本語ということばを使う日本人: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 あまりに多忙すぎて最近はブログを書くヒマがありません。 寝不足です。 各駅停車どころか遅延が発生しています。やっぱり計画が大事です。 というわけで、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のために書いた原稿から、文字数の関係でボツにしたものをエントリーの代わりに・・・。 川喜田二郎さんも書いていることですが、日人というのは頭の中だけで処理できる量の情報を相手にして、勘をはたらかせて雑然とした情報を統合的に処理するというのは得意です。だからこそ俳句や盆栽などの小さな世界に情報を圧縮してみせる文化も生まれ発達してきました。 ただ、頭の中での圧縮作業が得意だからこそ、逆に手間をかけて情報を圧縮するということが苦手だったりします。パッと見ただけでは処理しきれない量や複雑さをもっ

    gitanez
    gitanez 2009/05/24
    id:mobanama >説明には、ほんともくそもないと理解したほうがよいです。説明は単に理解が必要な物事をひとつの視点で解釈し言語化したものですから。本当かどうかより、その視点での解釈が有意か否かでは?
  • 富と文化: DESIGN IT! w/LOVE

    どうやら、その必要なことを考えずにここまで来てしまったんですね。そして、いまや、その必要さえもとうに忘れられたか。 もっとも富を作るということが文化を作るということにある程度まで必要な手段となるが、その程度を超過すると、時として富の中毒によって文化の停滞もしくは廃頽を来すようになるものである。文化の発達は富のごとく百年、二百年の努力でできるものではない。 文化を使って富を得て、その富の中毒によって文化を廃頽させたか。しかし、その廃頽した文化は百年、二百年の努力ではできない。 個人や法人でも同様だと感じました。富を得るのに比べ、文化に類するものを個人や法人が築きあげるのには時間がかかります。どちらにより時間を割くべきかは利口なものならわかりそうなものなのだけれど。 目先を見るか、将来を見るか。将来を見るなら来を見つめなくてはいけない。 世界の人類を向上せしむべき文化を作るか、それとも富を得

  • 外は、良寛。/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ひとつ前のエントリーでは、白川静さんの『初期万葉論』を紹介しました。そこでは、初期万葉の時代において文字を得た日は、社会も、歌も大きく変容したことが示されていました。ことばは文字となり、ひとつのことばが終わった瞬間です。 一方、はるか時代が下った江戸時代、ちょうど琳派の酒井抱一(1761~1828)やその弟子の鈴木其一(1796~1858)が生きた時代に、良寛(1758~1831)という越後の寒い北の地で歌を書いた人がいました。 「良寛は書くことで、書くことを捨てている人です」と松岡正剛さんはいいます。 文字というものは、もちろん言葉を情報保存するためにつくられた記号でわるわけですが、文字がコミュニケーションの維持・強化・洗練から離れて、書としてリリースされていくときには

  • 初期万葉論/白川静: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 白川静さんといえば漢字研究が有名ですが、ご自身によれば、もともとは『万葉』について考察する準備として中国の古代文学を志し、その結果生まれたのが「字統」「字訓」「字通」の字書三部作であり、数多くの漢字研究・中国文学研究の著作でした。その意味で書『初期万葉論』は、白川さんにとってはようやく辿りついた来の研究対象だったといえるのでしょう。 さて、その『初期万葉論』ですが、ひとことでその論旨を要約してしまえば、 初期の万葉歌に叙景の名歌を認め、『人麻呂歌集』的な相聞歌を人麻呂の呪的儀礼歌に先行させるような史的倒錯を、許すべきではない。 ということになるでしょう。 初期万葉歌の呪的性質白川さんは、こので『万葉集』を中国の『詩経』と比較文学的に並べることで、初期万葉の呪的儀礼的性

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