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日本文化とdemarcationに関するgitanezのブックマーク (2)

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。 善と悪の共存善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マーシャル・マクルーハンの後継者ともいわれるデリック・ドゥ・ケルコフは、『ポストメディア論―結合知に向けて』のなかで、「テレビの心理効果のなかでもっとも知られていないのは、それが個人の情報処理の文脈とプログラムの両方を外部化させてきたこと」だと述べています。 また、 テレビは、刺激とそれに反応するまでの間合を排除することによって、私たちから意識的に情報処理をする時間を奪ってしまうのである。 といい、や新聞などのテキストを読む場合のような情報のスキャニングのコントロール権を人間の側がもっておらず、あくまで画面に外部化されたスキャニング済みの映像を網膜に照射されているのだとしています。情報処理されることなく、直接網膜に、そして、身体に植えつけられるというわけです。そこに心的な

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