不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日からなんとなくこのことが気になっています。 私たちは日本の「本来」と「将来」の両方にまたがって暮らしています。(中略)私は未来論というものをほとんど信用していないので、あえて「将来」という言葉を使うのですが、将来のためには「本来」がよく吟味されなければならないと考えてきました。 僕がいう、このことは、<将来のためには「本来」がよく吟味されなければならない>ということです。 生の始めに暗く/死の終わりに冥しただ、この「本来」というのは、決して確実な答えとして存在するものではない。むしろ知ろうとすればするほど、不確実なものとしての存在性を明らかにしてくる類いのものです。それゆえ、本来の自分探しのような活動は必ず泥沼化します。 そのことを理解するためには、松岡さんが『空海の夢