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literacyとlanguageに関するgitanezのブックマーク (2)

  • 宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 文字、絵、物の形。それらが一体となり、触感、匂い、味覚や音さえも感じられるような表現が必要じゃないのか。マンガや絵では絵と文字が一体になっている。過去にさかのぼれば江戸時代の黄表紙などでは文字はマンガのような吹き出し表現すら介することなく絵と共存していました。 テキストが物を表象する。そういうシニフィアンとシニフィエのような従属的関係ではなくて、かつての象形文字や、オーラル・コミュニケーションでの言葉のように、言葉そのものが触感、匂い、味覚をまとって表出されるような表現を開発していく必要があるのだろう、と思うのです。 空気が読めない? いや、そもそも空気が書き表せていない「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」の前篇・後篇、そして、それに続く「自分が見たこと・

  • 自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために: DESIGN IT! w/LOVE

    言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。 見聞を言葉にすることがへたくそになっている松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。 と書いています。 下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。 その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。 田中優子さんが『江戸の想像力』で書いて

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