連続で、次の各イベントに聴衆として参加しました。 【2月5日】 宇野邦一 × 勅使川原三郎 (参照) 【2月6日】 丹生谷貴志 × 鈴木創士 (参照) 【2月8日】 多賀茂 × 三脇康生 (参照) 以下、私の主観を交えながら、ごく簡単なメモを記してみます。(パネリストの発言を引用していますが、いずれも私が受け止めた範囲での大意であり、発言者の趣旨と違っている可能性があります。) 5日の13時から、宇野氏の講義、勅使川原氏のワークショップ、宇野氏と勅使川原氏の対談イベントに続けて参加。 宇野氏の言葉とのつき合い方、勅使川原氏の居ずまいから影響を受ける*1。 私たちは時間「のなかで」生きている(という言い方を日常的にする)が、むしろ身体を時間的に生きている。 社会からの要請で知覚を狭め、時計通りに生きる「クロノス」の時間。 タガが外れ、内発的分節の「器官なき身体」が生きられる「アイオン」の時間
年が明けてからずっと書いてないな、と思いきや、けっこう書いてる。 書いてるけど、消している。 ここだけでなく、mixiの日記とかマイミクのコメントとか、2chのレスとか、ちょこちょこ書き上げては、書き込まずにやめてしまっている。 書くことだけで満足しちゃってるのか。 書いたものをオープンにすることにあんまり意義が見いだせなくなってるのか。 あるいは書くものをオープンにすることになんとなく壁ができてしまってるのか。 なんかそんな感じ。 話し言葉の場合、「やっぱりやめよう」と中断できる段階は1つだけ。頭で考えたあと、口で出すかどうか、のところ。口に出した瞬間、相手にはもう言葉が伝わっている。 書き言葉の場合、2段階ある。1つめが、話し言葉と同様、頭から文字になる段階。2つめは、その書かれた文字、文章を相手に見せる段階。 だから、昔から、書いた手紙は一晩おいて、翌朝読み返してから封筒に入れろ、と
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