富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変わりはないじゃなし 融けて流れりゃみな同じ 「ないじゃなし」ではなく「あるじゃなし」だろう、と昔から言われている。語呂で作ったざれ歌だろうが、この「ないじゃなし」があることで、もーう、先生ったら、ここはお教室じゃないんですから文法のお講義なんかよして、ほらお注ぎしますから、あらっ、そんなとこ触っちゃだめよーう、先生ったら、奥さまに言いつけますよ。 みたいな白痴的な雰囲気が漂って、それはそれでいいのかもしれない。
こないだ、いつの間にか週刊朝日に連載を始めていた中森明夫が「宮台真司の時代」があったと書いていた。中森は途中まで宮台の協力者だったが、自分が離れてから天皇がどうとか言い出しておかしくなった、と前から言っている。 私も宮台を批判していたが、宮台は答えなかった。私は売春必要悪論に転向したが、宮台の「援助交際は家父長制を解体する」などというのはもちろんでたらめ。その種の議論では私の勝ちである。あるいは中森や大月隆寛の勝ちである。 しかし、二十歳年下の東大名誉教授の娘と結婚して子供まで作ったという、人生上の幸福(少なくとも他からはそう見える)において、私は宮台に負けた。宮台の結婚は45の時だったが、私が45までに、二十歳年下のお嬢さんはおろか、結婚して子供をこしらえるなどということができる可能性は極めて低い。 そういう意味で、負けたのである。何も結婚して子供作るばかりが幸福じゃないだろうとか、そう
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