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日本史に関するhyro-mのブックマーク (1)

  • NBOnline 第2回 六千の家臣とともに米沢を築いた戦国時代随一の智将 直江兼続

    上杉景勝とその忠臣・直江兼続は、豊臣秀吉の死後、着々と力を蓄える徳川家康に対抗することを決意。自国会津で着々とインフラ整備を進めていた。これを謀反の兆候と捉えた家康は、景勝に上洛して弁明するよう指示。それに対して兼続は強気な返答書を送り、家康を激怒させてしまう。これが有名な「直江状」のエピソードである。 その後の家康勢との攻防の末、上杉軍は撤兵を決定。大軍を率いての撤退は戦術上、極めて困難とされるが、兼続は自ら殿(しんがり)*を務め、全軍を13段に分け、追撃軍に対して交互に応戦しながら徐々に撤退するという上杉家伝来の「懸かり引きの戦法」を駆使するなどして劣勢の自軍を巧みに操り、大きな損害もなく自国領内である米沢城に戻ることに成功した。この撤退劇があまりにも巧みゆえ、敵である家康らからも賞賛されたという。 家康の強大な権力に対抗するにあたり、兼続はあえて強気な態度をとり家康の感情を揺さぶった

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