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映像に関するislay705のブックマーク (2)

  • 映像論序説 北野圭介

    ―映像論序説―   <デジタル/アナログ>を越えて 北野圭介 【目次】 (下線のところをクリックしてください。各章の文へリンクしています。) 序章 (07年6月29日) 第1章 画面とは何か――〈スクリーン〉と〈モニター〉の間 第1節 アナログとデジタルの連続 (07年7月31日) 第2節  映し出されたものと映し出されるはずだったものの間 (07年8月31日) 第2章 映像と身体 第1節 見つめる身体と操作する身体 (07年12月7日) 第2節 厚みと膨らみ (08年2月21日) 第3章 映像とその外部 第1節 映像が映し出す物語 (08年3月17日) 第2節 遮断と接続 (08年5月21日) 結論――イメージの唯物論へ向けて(08年6月13日完) 北野圭介(きたの・けいすけ)/1963 年生。ニューヨーク大学大学院映画研究科博士課程中途退学。ニューヨーク大学教員、新潟大学人

    islay705
    islay705 2011/04/07
    映像論
  • CMの実務的な「パクリ」について - 北小路ゲバ子の恋

    のCMはなぜ海外CMおよびPVを「パクる」のかについて、実務的見地からの私見を述べる。(とはいえ、私は久しくCM制作から離れている。また、それを生業にしていた当時は、inferno*1の登場により、かわった場面転換が流行っていた時期である。前世紀から今世紀にかけての、すなわちカイル・クーパーのモーションタイポとミシェル・ゴンドリーの魔術に魅せられていた時代である。それはそれで特殊な時期なのかもしれない。というエクスキューズをあらかじめしておく。) [追記] 一般に「アイデア」という言葉を使いがちであるが、これは「表現」と「技法」とに区別できる。モーフィングなどの技法は広まるものである。それはソフトウェアや特機によるものであるのだから。その際に、「表現」までをも取り込んでしまうと問題になる。実務的には、コンテを通す過程において、技法の説明が表現の領域にい込んでしまうと … ということで

    CMの実務的な「パクリ」について - 北小路ゲバ子の恋
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