天正15(1587)年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は大規模な国割りを行った。筑後国(福岡県南部)は分割され、立花宗茂(たちばな・むねしげ)、筑紫広門(ひろかど)、小早川隆景(たかかげ)、小早川秀包(ひでかね)へそれぞれ与えられた。 秀包は、毛利元就(もとなり)の末子で、兄である隆景の養子となったが、毛利秀包と書かれている場合もある。この秀包が久留米の地に入封し、築いたのが久留米城(福岡県久留米市)だ。 ところが、秀包は、関ヶ原の合戦で豊臣方(西軍)に属したため改易になる。代わって、田中吉政(よしまさ)が、石田三成を生け捕りにした武功で筑後国32万石を与えられ、柳川城(福岡県柳川市)に入城すると、久留米城は支城となる。 その後、元和元(1615)年の一国一城令によって、久留米城は廃城となった。 田中氏に跡継ぎがなく断絶すると、筑後国は再び分割される。立花宗茂が柳川藩12万石として復活。立花種次