既にブログ上での感想もひと段落した感がある「ポニョ」ですが、敢えていまさら観にいきました。で、感想としては「陽性な不思議さ」の一言に尽きるのですが、この感想を補強するためにちょっと脱線しましょう。 ところで私は、「今まで観た映画の数」は「年齢とほぼイコール程度」の僅かな摂取量であるのに対して、今まで読んだ小説は「我が家の本棚の現在の在庫量」だけで464冊という数量比が象徴的なように、基本は「文字から喚起される自分の具象/抽象的なイメージを大事にするタイプ」の人間なのです。ちなみに、摂取した小説的なバックグラウンドからすると、今回のポニョの感想は「陽性なマジックリアリズム的なソレ」といいますか、南米なんかのそれよりも、米国の下記作品などが脳裏に浮かんでくるのです。 世界の果てまで何マイル (ハヤカワ文庫SF) 作者: テリービッスン,Terry Bisson,中村融出版社/メーカー: 早川書
ポニョの2回目を見てきました。感想を書こうとおもうんですが、その前に全然関係ないんですけど、今やっている『カンフー・パンダ』をどうにも見る気がしません。ポニョ見に行ったらイヤでもポスターが目に付くじゃないですか。たぶん、見たら面白いだろうとは思うんですよ。制作もドリームワークスだし、少なくとも退屈しないだろうと思うんです。 でも俺としてはどうも、パンダがカンフーしているだけで『らんま1/2』を思い出してしまって。内容が違うのはわかってるんですけどね。パンダがカンフーして何も悪いことはないんですよ。コロコロと太ったパンダがアチョーとか飛んだり跳ねたりしたらお子様は大喜びでしょう。しかしそろそろ48歳にもなる中年男が、一人で映画館行って「パンダ一枚」と1800円出す姿が、どうしても思い浮かばないんです。 そんなこと言って、おとといもチケット売り場で「ポニョ。大人一枚」って買って中に入りました。
昨日の土曜日、宮崎アニメの新作『崖の上のポニョ』を見てきました。一応、ネタバレにならない範囲で感想を書きますと、見たことがない種類のアニメーション映画でした。アニメーションとしても映画としても、似た作品を俺は思い当たらないし、過去のどの宮崎アニメとも似ていません。 もちろんキャラクターとか、ディティールの演出やセリフはいかにも「宮崎駿」なんですよ。確かに宮崎アニメに違いないが、見ている最中の「違和感」は、これまで感じたことがないほどのものです。まるで、はっと気がついたら父親が人間モドキに変わっていたような感じ。 『魔女の宅急便』を試写で見たときに、それまでの宮崎アニメと雰囲気が違うので少しとまどったことがありますが、二度目に見たときには大好きになりました。『ポニョ』も複数回見れば、印象が変わるのでしょうか。たぶん、そうなのでしょうが、今度ばかりは「理解した」と思えるまでに時間がかかるかもし
原作・脚本・監督: 宮崎 駿 「アニメのしょげんに立ち返る。」 本作についての合同会見で宮崎駿はこういった。 しょげんってナンだ?。諸元でもない。緒言でもない。おそらくは初源のことなのだと思う。この「初源」が「ポニョ」を語る上でキーワードになる。気がする。 まず。ポニョの初源はどこか。 まずこの映画の企画の発端は中川李枝子のアニメ化企画だと宮崎駿はラジオのインタビューで述懐している。作者の中川李枝子と宮崎駿の接点は、「そらいろのたね」という短編で宮崎駿がアニメ化している。このアニメが「宮崎駿らしくない点」は原作を壊していないことだ。非常に忠実に作っている。宮崎駿はストーリーテラーではなく「ワールドテラー」なので、基本的に世界そのものを語り直す人だ。「魔女宅」にしても「ハウル」にしてもテレビシリーズの「コナン」「ホームズ」にしても、「世界観を壊して一から作り直す」人で、そんな面倒くさいことを
「崖の上のポニョ」を観ました(109シネマズMM)。 宮崎駿曰く「アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く」。そんな映画であるような気もしますが、同時に大きくタガが外れた老人の狂気が濃縮された一本であるようにも思えます(詳しくは皆様も劇場で確認してみたら良いと思います)。 宮崎駿という人は、一貫して「クローズドなコミュニティ」を描いてきた人であると思います。「風の谷」に暮らすナウシカ、「炭鉱町」で暮らすパズー(その後は海賊船)、エボシが長を務める「たたら場」、そして千尋が奇しくも労働する事となる「湯屋」。クラリスが幽閉されている「カリオストロ公国」も、単位で言えばコミューンと言って差し障りは無いでしょう。 今回の「崖の上のポニョ」でも、小さな漁師町が舞台となっていて、やはりそこだけで完結した世界として描かれています(大型スーパー的
この項目では、北欧・ゲルマン圏の伝承の登場人物について説明しています。 ワーグナーの楽劇の登場人物(ブリュンヒルデ)については「ニーベルングの指環」をご覧ください。 その他の用法については「ブリュンヒルデ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ブリュンヒルド(ガストン・ビュシエール、1897年) ブリュンヒルド(古ノルド語: Brynhildr、中高ドイツ語: Brünhilt、ドイツ語: BrünhildないしBrünhilde、英語: Brunhild、ブリュンヒルト、ブリュンヒルデとも)は、ゲルマンの英雄譚(ドイツ語版)に登場する女性である。実在した西ゴート王女ブルンヒルドを原型としていると考えられている。 北欧の伝承においては、ブリュンヒルドは盾乙女ないしヴァルキュリャとして登場する。『エッダ』『古エッダ』そして『ヴォルスンガ・サガ』には、彼女を主要人物とする同一のエピソードが含まれて
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