暴力性と、他者への愛。韓国の作家ハン・ガンさんは、この人間の二面性を一貫して作品に描き、国際的に高く評価されてきた。近年、相次いで小説の舞台としたのが、多くの犠牲を出した韓国現代史における二つの事件…
「あとで読む」と思った本が、後で読まれた試しがない。 今度の週末・連休にと、積まれた本は崩されない。次の盆休み・年末年始に繰り越され、山脈を成し床が消える。 読書を食事になぞらえて、「血肉化」と表現するならば、私がやっていることは、メニューを眺めて片っ端から注文しているくせに、いんすた映えを気にしながら撮るくせに、まともに咀嚼して嚥下して消化してない状態だ。 そのくせ、「積読も読書のうち」と開き直ったり、溜まった本こそ私の証などと屁理屈こね回す。読まない本に「負債」のような後ろめたさを感じつつ、新刊本を探しだす。新しい本はそれだけで価値があると盲信し、かくして積読リストは延びてゆく。 もう一つ、恐ろしい予感がある。感受性の劣化だ。 あれほど楽しみに「取っておいた」本が、まるで面白くなくなっている。いや、その本の「面白さ」が何であるかは理解できる。だが、それを面白いと感じなくなっているのだ。
……というのが長い間疑問でした。でもやっと謎が解けた気がする。 アスペルガーを自称している人はいる。しかしネット上だと、ブログでもツイッターでも言うことはすっごく普通(≒いわゆる「空気が読めない」ではない)であり、というか普通の人よりむしろ表現が理性的・論理的に見えるのですね。 ぼくは知り合いにアスペルガーの人はいません。たぶん。自称している人はいないし、「この人、あれかな?」ってほど空気読めない感じの人もいない。なので、アスペルガーの人は対面ではコミュニケーションが取りにくいって話を想像するのが難しかったのです。オンラインだと極めてまともな人が、オフラインだとほんとうにぐにょんぐにょんになってしまうのか? ネット上ではなぜ「空気が読めない」状態の文章にならないのか? しかし、現在読み進め中のこの本に、ヒントを見つけることができました。 ユーザーイリュージョン―意識という幻想 作者: トー
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