母国語と言語学に関するkaihuuinternetのブックマーク (1)

  • 「ら抜き言葉」こそ「美しい日本語」であり使うべきである、その理由 - プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

    「ら抜き言葉」は、間違った日語の使い方とされている。 少なくとも正式ではなく、改まった場で使うべき言葉でないとされている。 しかし私は逆に、ら抜き言葉こそ世に言う「美しい日語」であり、ら抜きでない表記はむしろ絶滅した方が良いと思っている。 まず、ら抜きでない表記―― 例として「テレビを見られる」を採り上げてみよう。 これには、三つの意味が読み取れる。 ①可能態:「テレビを見ることができる」の意味 ②受動態:「(私の)テレビを見られてしまう」の意味 ③敬語態:「テレビをご覧になる」の意味 一つの表記で、この三つの意味のどれにも取れる。 その文章単体では判断できず、前後の文脈を見ることでしか判断が付かない。 これを私は、「美しくない」と思うのである。 では、ら抜き言葉にすればどうか。「テレビを見れる」―― これは問題の余地なく、①可能態 の一択である。 すなわち、その文章を見ただけでどんな

    「ら抜き言葉」こそ「美しい日本語」であり使うべきである、その理由 - プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】
    kaihuuinternet
    kaihuuinternet 2019/11/23
    俳句と川柳との違い、はさておいて。コバンザメ風はご容赦。むしろ、『へ抜き理屈』こそ「非醜言語学」であり小間使いである。「げっぷ」は、下からよりも失礼だ、と聴いた事あり。老いるは、その点に配慮するべきで
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