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Philosophyと読み物に関するkana321のブックマーク (7)

  • Amazon.co.jp: よいこの君主論 (ちくま文庫 か 54-1): 架神恭介, 辰巳一世: 本

    Amazon.co.jp: よいこの君主論 (ちくま文庫 か 54-1): 架神恭介, 辰巳一世: 本
  • どのようにして僕はプログラマになったのか思い出してみた

    一番最初に僕がプログラミングをしてみたいと思ったのはコンピュータを手にする前からだったと思う。 あるとき小学校高学年の頃に読んでいた子供向けの雑誌の巻末に、巡回セールスマン問題のような懸賞問題が載っていて、最高得点を出した読者に景品が当たるなどというものをみて、それを手でひたすら試行していた。それを見た親が「これはコンピュータでバーッと計算するんじゃないか」みたいなことを言った。そのとき、そうか、こういうのはコンピュータを使えば手でやらなくていいんだ、機械的にパターンを試していくだけなんだからな、と思ったのだった。 その懸賞には相当時間を費やしたのだけど、結局景品はもらえなかった。当然だれかがプログラムを書いて、僕の手で求めた解よりよい解を一瞬で見つけてしまったんだろう(しかし僕は今でも、人間がやるかコンピュータでやるか微妙なくらいの問題をひたすら手でやるのはなぜかかなり好きではある)。

  • 一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

    「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。 そこまでは正しい。 だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」というを出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、このも20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。

    一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
    kana321
    kana321 2014/01/18
    一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
  • 対戦型哲学史

    「対戦型哲学史」は、哲学者たちの間の対立や相関をノードとしたネットワークによりその思想を浮かび上がらせた、新しい方法の「哲学史」です。+url:kuru/PHILOFIGHTに続けてキーワードを入力すると、対戦型哲学史のみの検索が可能。 哲学史には、《新奇さ》を縮減する機能があります。 「目新しい思想」は、常に何ものかの繰り返しであり、コピーであり、焼き直しです。そのことはその思想の価値を(そんなものがあるとしたら、ですが)いささかも減じるものではありません。むしろその思想に「存在理由」のようなものがあるとしたら、それは「再び出現した」ことにこそ、求められるでしょう。 「対戦型哲学史」は、哲学者・思想家たちの間の「対戦」、すなわち対立、相関をノードとしたネットワークにより、思想家とその思想を浮かび上がらせた、新しい方法の「哲学史」です。 「対戦」とは、哲学史上の著名な「論争」であり、

  • 生きている意味が圧倒的にわからない

    生きている意味がわからない。 ミクロ的にはわからないこともない。自分の幸せのため自分を愛してくれている人の為子供のため社会の為種の保存の為 でもそれがなんだと言うんだろう?自分はいずれ死んでしまうし、自分を愛してくれている人も死んでしまうし、子供も死んでしまうし、人類だって滅びてしまう。そもそも、この宇宙だっていずれは停止する運命にある。要するに自分が何をやったとしても、もしくは何もやらなかったとしてもはっきりいって無意味だし無価値だ。 圧倒的な無意味の中でどうやって生きていけばいいんだ? どうすれば、自分の人生が価値あるものだと思えるんだ? 僕はつねに正しくあろうとしてきた。その正しさの根拠をどこかに求めようとしてきた。 人間は社会的動物である。では、社会に正しさの根拠を求めればいいのか?いや、社会的動物なのであれば生物として存在し続けること = 種の保存に則って生きていけばいいのか?い

    生きている意味が圧倒的にわからない
  • これはウェブページです。

    たいしたページではありません。 あるのは言葉だけ。 それをあなたは読んでいます。 オシャレなデザインや、レスポンシブなレイアウト、魔法のようなスクリプトに私たちは魅了されてしまいました。 でも、ウェブで一番強力な道具は、今も昔も言葉です。 私が書いた言葉を、あなたが読んでいる。これこそ魔法です。 私はブリティッシュコロンビア州の小さな都市にいますが、あなたは別のどこかにいることでしょう。私は2013年6月20日の早朝にこれを書きましたが、あなたは違う日時にこれを読んでいることでしょう。私はノートパソコンでこれを書きましたが、あなたは携帯電話でこれを読んでいるかもしれないし、タブレット端末やデスクトップ端末で読んでいるかもしれません。 私とあなたがこうして繋がることができたのは、私が書いた言葉をあなたが読んでいるからです。ウェブとはそういうものです。場所や端末、タイムゾーンが違っても、このシ

  • なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia

    「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、 「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」 「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」 「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」 などと問われる場合もある[注釈 2]。 物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問

    なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
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