「自然(しぜん)」という言葉を、私たちは、 当たり前のように使っているが、 この言葉は、本来、日本語にはなく、 近代になって、英語の「ネイチャー」の訳語として、 仏教用語だった「自然(じねん)」を当てはめ、 「自然(しぜん)」と読むようになったもので、 「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」では、 その意味が違うことを、 鈴木大拙が指摘している。 ただし、吉本発言における「自然」は、 そうしたことを踏まえたものではなく、 たんに後者のことを語っているようだ。 こうしたことを確認したうえで、 吉本隆明による若い世代の 詩への批判を読み返してみると、 いささか、首をかしげざるをえない。 なぜ、詩に自然がなければならないのか? そして、本当に「新しい詩人」を始めとする 若い世代の詩には、自然がないのか? この2点を厳密に検討してみるならば、 ともに答えは、吉本隆明氏の考えるところとは、 正反対で
北川透氏は、ある対談で、 「今、吉本隆明が若い人たちに読まれている」と語ったことがあるが、ここで言うところの「若い」が、北川氏よりは「若い」という意味で、 50代、60代の団塊の世代以上の高齢者を意味しているのであれば、この発言は事実を語ったものということになるし、 社会的に「若い」、20~30代を意味しているとしたら、たんに「真っ赤な嘘」というものである。 吉本隆明は、バブル期に、かつての左翼活動が目指していた平等な社会の実現を、高度資本主義が実現したと語った。 たしかに、「一億総中流」とまで言われた、経済的な活況のなかでは、吉本氏の語るところは納得ができるものであったが、 そして、吉本隆明氏は、そうした今日的な問題には、何らかの視座を示したことはないので、若い世代が、吉本隆明に関心を持たないのも当たり前かも知れない。 たしかに、吉本隆明は偉大な思想家だが、それは、あくまでも、昭和の思想
「新しい詩人」(思潮社)が刊行されて、 00年代の新世代が、その輪郭を明らかにしつつあるが、 一方、年配の詩人たちを中心に、批判の声も少なくない。 戦後のベビーブーマー世代の特徴を 「飼い慣らされた羊たち」と指摘し、 「団塊の世代」と名づけたのは、堺屋太一だが、 もっぱら保身に必死な 団塊の世代の発言のあらかたは、 真に受ける必要はないとはいえ、 やはり、吉本隆明による、 若い詩人の詩には、自然がない、 その作品は無だという苛烈な批判は、 波紋を呼ぶことになった。 この批判に対して、森川雅美編集による 詩誌「あんど」8号は、さっそく、 特集「新しさを超えて」を組んだが、 及川俊哉編集による「ウルトラ」次号も、 吉本発言に応える特集を企画しているという。 若い世代から、どんな反応があるのか楽しみだが、 一方、「あんど」で井川博年氏が語っているように、 「だいたい今の若者は吉本なんか読んでない
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く