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東日本大震災に関するkasimasi1003のブックマーク (6)

  • 潮の匂いは。 | 文芸部|宮城県石巻西高等学校

    5月26日(日)14:00~東松島市コミュニティセンターを会場に校吹奏楽部による「第35回定期演奏会」を実施しました。当日は230名以上のお客様に来場いただきました。校の校歌をはじめ、15曲を演奏しました。年々、来場したお客様に楽しんでいただくため、演奏の技術はもちろんのこと、演出にも趣向を凝らしています。来年も多くのお客様に楽しんでもらえるよう吹奏楽部の活躍に期待したいと思います。 5月24日(金)は各学年テーマにそって進路関係の学習に取り組みました。 【1年生:進路講話】 「適性診断」及び「来年度に向けた科目選択」について、リクルートの志田様から様々なことを教えていただきました。 【2年生:進路の手引きを活用した今後の進路対策について】 2年生は各クラス事、「進路の手引き」を活用して自分達の今後の進路活動を考える時間としました。 【3年生:進路分野別ガイダンス】 3年生は「私大」「

  • 3.11福島

    3月11日の地元サーファーの記録です。

    3.11福島
  • 被災乗り越え夢舞台 あの日守ったグラブ手に (デーリー東北新聞社) - Yahoo!ニュース

    母のため、仲間のため―。第86回選抜高校野球大会(センバツ)に出場する光星で、エースナンバーを背負う佐藤駿君(17)=3年=は中学2年生のとき、東日大震災で、出身地の宮城県東松島市で被災した。今も行方が分からない友人もおり、一時は野球をやめようと思ったが、母紀恵さん(49)らの支えで立ち直り、夢の甲子園の土を踏んだ。 強く、長い揺れ。佐藤君は震災時、卒業式の準備のため学校にいた。家族はいったん自宅に戻ったが、紀恵さんは海岸沿いにある勤め先の石巻市立病院へ。佐藤君は「津波が来ると思った」と感じ、野球道具が流されないよう2階に運ぶと祖母、叔母とともに高台へ避難した。 紀恵さんは車を運転中、津波に襲われた。ドアが開かず「無理そうだから精いっぱい生きて」と覚悟のメールを息子に送った。幸い、物がぶつかった弾みでドアが開き、消防隊に助けられた。 同級生やチームメートの何人かは今も行方不明だ。「

  • 『無題』

    今朝、あったかい部屋で起きました。 今日、長距離を車で移動しました。 あったかいコーヒーを飲んで、小腹が空いたと飴をべました。 夕御飯をお腹いっぱいべました。 飲んだスープが熱いと思いました。 ただいま、と朝と変わらない部屋に帰りました。 3年と1日前までは当たり前でした。 3年前には、当たり前なんてなくなりました。 東日大震災、あの日から3年が経ちました。 『もう3年』 『まだ3年』 感じ方はそれぞれだと思いますが、『3年』の月日が流れました。 当たり前が一瞬で消えたあの日、3年前のあの日の今頃は雪が降る寒い夜でした。 いつもならあったかい部屋で笑いながらテレビを見ていただろうあの時、わたしは中学校の校庭で赤い空を見ていました。 体育館で寄り添い合いながら暖をとっている人達 一晩中鳴り続けていたサイレン 夜が明けて見下ろした住み慣れた場所に重なる瓦礫 瓦礫や土などで濁った海 わたし

    『無題』
  • 『東日本大震災から3年』

  • 災害に苦しむ国民に勇気を与える両陛下

    災害に苦しむ国民に勇気を与える天皇皇后両陛下                            戻る 日の国土は地震や台風が多く、時として国民が大きな被害を受けることも少なくありません。大きな災害で被害が出る度に、天皇皇后両陛下は災害に苦しむ住民達の避難所を御訪問され、慰め励まし、そのことが被災者の人々に大きな勇気を与えています。阪神淡路大震災や新潟中越地震による大きな被害は未だ記憶に新しいですが、この時も余震の危険性が大きいにも関わらず、天皇皇后両陛下は積極的に現地の避難所を御訪問されています。 阪神淡路大震災の時に避難所を天皇皇后両陛下が御訪問した際のインターネット上の書込みを集めてみたので、参考にして下さい。 以下はインターネット掲示板の書込みより ○388 名前: 底名無しさんダーバード 投稿日: 03/01/20 22:59 ID:UGx1q9eh 私が西宮の避難所にいると

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