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コラムに関するkhiroakiのブックマーク (2)

  • 哲学的な何か、あと科学とか

    Q1:飲茶さんは、 「『機械的な部品』にすぎない脳細胞がどんなに集まっても、 なぜクオリアが生じるのか説明ができない」 と言っていますが、 たとえば、車のエンジンは、『機械的な部品』が集まってできたものですが、 エンジンをどんなに分解しても、「車が走るという現象」はでてきません。 脳とクオリアの関係も、これと同じで、 説明できなくても当たり前ではないでしょうか? つまり、クオリアを問題にしている人たちは、 「エンジンを分解したのに『車が走る』という現象がどこにもないぞ」 と大騒ぎしているのと同じではないでしょうか? A1:いいえ、ちがいます。たしかに、エンジンを調べても、 「車が走る」という「現象そのもの」は出てきませんが、 「車が走る」という「機能の仕組み」は説明はできます。 たとえば、「なぜ車が走るのか。それは、エンジンの中でガソリンが爆発して、 その力がシャフトに伝わり、タイヤを回す

  • 公平とは何か〜「選択の自由」と「公平性」 | WIRED VISION

    公平とは何か〜「選択の自由」と「公平性」 2008年3月 6日 経済・ビジネス コメント: トラックバック (0) (これまでの 小島寛之の「環境と経済と幸福の関係」は こちら) 前回と 前々回は、鈴村興太郎の論を借りて、「競争」というものの意義を「チャンス」や「自由」ということから考えた。今回は、それから派生する問題を扱うことにしよう。それは「公平」の問題である。 世の中で公平を生み出す方法は、大きくいって二種類ある。一つは、完全な確率的対称性を利用することであり、もう一つは「選択の自由」を保証することである。同じ公平性の創出の手段であるにしても、この二つの方法は似て非なるものといっていい。 例えば、「ピッチャー1杯分のビールをAさんとBさんの二人で公平に飲むにはどうすればいいか」、という問題を考えてみよう。もちろん、正確なメジャーがあって、それで完全に等量を分けることができるのなら何も

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