関ケ原の戦いに向かう徳 川軍を翻弄したが、敗軍 側についたため浪人とな り、九度山で閑居。大坂 の陣でも家康を苦しめ、 敵から「日本一の兵」と 称えられる関ケ原の戦いに勝利し幕 藩体制を固めていったが 「天下人」となるには豊 臣家をつぶす必要があっ た。老将は諸大名に号令 をかけ、20万の兵で大 坂城を包囲する〝鉄壁〟真田丸 一兵の侵入も許さず 豊臣方の知将、真田幸村が大坂城の南側に築いた出城・真田丸で最大の激闘が展開された。徳川方が失った兵数は数千とも1万以上ともいわれ、冬の陣全体の大半を占めた。大坂城は三方を川や湿地帯で囲まれ、南側だけが台地続きで唯一の弱点とされていた。そこを防衛する役割を担ったのが真田丸だ。櫓や堀、三重の柵を備えた堅固な要塞で、城郭に詳しい滋賀県立大の中井均教授は、数で不利な状況でも攻守に効力を発揮する合理的な構造だったと説明する。当時の兵にとって合戦は「活躍次第で
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