呉座勇一さん、私は全く面識がないし著作も読んだことないんですが、鍵アカウントで私に見えないように私の悪口を言っているというスクショいただきましたー。かわいらしい方ですね。 https://t.co/JDBFhxLj5v
1990年代の「女の子写真」ブームの背後には女性蔑視が隠れていた——『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林)を上梓した写真家の長島有里枝氏はそう指摘する。当時、自身に向けられていた評価に対する、当事者からの異議申し立て。 女性写真家たちが抱いていた違和感 西洋美術にダダイズムやミニマリズムのような芸術運動があるように、写真の分野にもその時代ごとの潮流やムーブメントがある。その観点から日本の写真史を紐解くと、1990年代は若手女性写真家が活躍した「女の子写真」または「ガーリーフォト」の時代とされているのがわかる。 1993年、家族と自分を被写体にしたセルフ・ポートレイトが注目されて世に出たわたしは、90年代の写真潮流を牽引するフロントランナーの一人と評された。 まだ名前すらなかった新しい写真表現はあらゆる人に論じられ、最終的に「女の子写真」と呼ばれ始める。自
“kiki vivi lily”という言葉を聞いて、何をイメージするだろう。宮崎駿作品の主人公、女性ファッション雑誌、ユリの花。そのどれもが当てはまらないか、あるいはすべてが当てはまる、そんな謎めいた新人女性アーティストkiki vivi lilyが今年デビューする。彼女は、これまで“ゆり花”というアーティスト名で、都内のアコースティックシーンを中心に活躍。柔らかい歌声と、どこか心が温まるような甘いサウンドを特徴とする彼女の楽曲は、全国的人気アイドルにもカバーされるほど高い支持を獲得していた。活動が勢い付いてきたかに思えた彼女は、昨年突如活動を休止。そして今年、“kiki vivi lily”という名で復活を遂げ、今年10月19日(水)にデビューアルバム『LOVIN' YOU』をリリース。ラップアルバムではないが、ヒップホップ要素が強く、同時にシティポップ感やソウル感がうかがえる、なんとも
今回はプリンセスに対する男性の憧れについて書いてみたいと思います。プリンセスといえば女の子の夢……なので、「男性のプリンセス願望とは?」と思う方もいらっしゃるでしょう。映画の話を絡めながら、これについて分析していきます。 プリンセスの謎 ディズニープリンセスからダイアナ妃のような実在の女性まで、キラキラのドレスやティアラを身につけたプリンセス(英語では王女と王子妃の両方を指します)に憧れる女の子はたくさんいます。一方、プリンセス願望は階級や容姿に関する偏見を子どもに植え付けかねないという不安を抱いている保護者もいます。例えばペギー・オレンスタイン『プリンセス願望には危険がいっぱい』(日向やよい訳、東洋経済新報社、2012)はこうしたプリンセス願望を批判する本です。この本によると、ディズニーなどの企業は女の子のプリンセスへの憧れを刺激して利益を得ていますが、こうした風潮のせいで女の子は小さい
優月心菜(ここなし) @kibiruu 憤りしかありません。 ファンはアイドルをアイドルとして見て、アイドルとして扱うのが大事です。1人の女の子、女性としてみてはいけないと思う。 2016-05-21 22:36:36 優月心菜(ここなし) @kibiruu 写真の無断転載、配布、なりすまし禁止。(過去)セクシー女優、バラエティ・ドラマ・映画・舞台・エロゲ歌唱・エロゲ声優数本出演、漫画「白咲いちごは断れない」(集英社) / #ここなしポトレ/お仕事、ご依頼はkibiruu@hotmail.com まで! https://t.co/JZBGs5hLWs 優月心菜(ここなし) @kibiruu アイドルは、あなただけのものじゃないし、あなただけに接しているわけでもありません。独占したいなんて思うなら現場に行ってはいけません。自分のものにならないからといって病まないで下さい。病むなら行かないこと
92年の結成以来、日本のオルタナ〜シューゲイザー・シーンを代表するバンドとして国内外で高い評価を獲得しているルミナスオレンジが、レア音源を多数収録したキャリア初となるベスト盤『Best of Luminous Orange』を発表した。トラットリアからのリリースなどを経て、02年からはフロントマン・竹内里恵のソロ・プロジェクトとなり、近年はリリースの数こそ減っていたものの、イナザワアヒトをはじめとした多くのサポート・メンバーを迎えて着実な活動を続けてきただけに、本作のリリースを機にバンドに対する注目が再び高まるのは間違いない。しかも複雑な楽曲に対する無理解に苦しんだ90年代に対し、ポストロックを通過してリスナーの耳が肥えた今、ルミナスを迎え入れる体制はばっちり整ったと言える。この状況はひとえに、「解散しないって決めちゃった」という竹内の表現に対する情熱が呼び寄せたもののような気がしてならな
通訳がマンコチンコ連呼!パンクだな、これは。 僕の意見としては、「猥褻かどうか」って言われたら「猥褻」という言葉は嫌だ、と応える。しかし普通に芸術としても見れるし性の対象としても見れる、両方兼ね備えたもの、というように応える。 僕ら(ら、というのは例えば友人の作曲家さんとか)は、茶化したり卑下したりせず、ごく普通のものとして、それらの行為や器官を捉える。じゅうぶんエロイし、それが何故悪いのかと思う。「猥褻」という単語には何かいやらしい響きがあるでしょ。取り扱い方の問題として蔑んでることがとても多い。それが嫌なのよ。普通に性の対象で好きだと言うことでいいじゃないの。大好きですよ、私。そういうの踏まえたうえで、もっと先に進めよ、って感じがするね。性は茶化すものじゃない、極めるものだ、と思ってるからね。 たまたまなのだけど、こないだ、その「友人の作曲家氏」と久々にゆっくり話す機会があったときに、
今の僕の信条として「肉体的反射を最優先する」というのがあります。以前も長々と書いた覚えがありますが、もう一度、そこの考えに至った経緯を、ろくでなし子さんの事件と合わせながら振り返ってみたいと思います。 常々、90年代が僕にとっての青春だった、と言っているけども、いろんな理由やきっかけがあってそうなったんだけど、一番の大きな理由は、引越しで環境や人間関係が変わったことじゃないかって思ってる。考え方や見方も変わるし、話す相手が変われば(いなくなれば)、思考のパターンが変わるんだよね。街の外れに一人で一軒家住まい、というのは、思考を邪魔する相手がいないから、ゆっくり熟成できる。ということ。そんなときに出会ったのが、この本。 「快の打ち出の小槌 〜日本人の精神分析講義〜」佐々木孝次+伊丹十三・著(1980年) いまではトンデモ科学な感じもするけど、当時はこういうことを「ちゃんと」言う人が居なかった
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く