子規に関するmasayukisanadaのブックマーク (6)

  • 子規の生涯⑥幼年時代豆知識(1)

    実家の火事の原因は?前回も書きましたが、正岡家は明治2年(1869年)、子規3歳(数え年、以下同じ)の時に失火で全焼します。原因は味噌をつくる麹をこたつで発酵させていたため、あるいは曾祖母久と父常尚が酒を飲み、七輪の火を消し忘れたためと言われています。後者が原因なら、ほんと困った人だなあ。酒飲みお父さん!曾祖母も酒豪だったらしいです。 お灸はいつまで?お灸をすえられても我慢できた子規の話をしましたね。当時は子供にお灸をすえる風習があり、妹律の話では1年に2回、2月と8月にすえていて、背中や腰など9カ所、半日仕事だったそうです。明治16年に子規が上京するまで続けられたんだとか。他家でもそんな年までしていたものなのでしょうか。ちょっとびっくり。 父の死明治5年、子規は6歳の時、父を亡くしました。死因は脳溢血という話もあったみたいですが、子規は「筆まか勢」の「父」で「脂肪変化」だった疑いがあると

    子規の生涯⑥幼年時代豆知識(1)
  • 子規の俳句②ラムネの栓天をついて時鳥

    子規にはホトトギスの句が多い。試みに子規記念博物館のデータベースで検索すると300句ほどありました。 ホトトギスは喀血の代名詞。俳号に子規(ほととぎす)を用いるようになった経緯は以前の記事に書きましたが、喀血後の暮らしの中でもやはりホトトギスを意識することが多かったということでしょうか。 新旧の取り合わせこの句は子規の自選句集「寒山落木」巻一、明治24(1891)年夏の項に収められた一句。西洋の文物がどんどん取り入れるようになった時代。ラムネはどの程度普及していたのでしょうか。新しいもの好きの子規らしい句です。 古に恋ふらむ鳥は霍公(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が思へる如(ごと) 額田王 姿が見えず声だけが聞こえるホトトギスは、万葉の昔から親しまれてきた季題の一つ(たぶん)。そこに新時代のラムネを取り合わせたところがみそ(な気がする)。「天井をついて」はオーバーな表現かもしれませんが、新鮮

    子規の俳句②ラムネの栓天をついて時鳥
  • 子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月

    明治29(1896)年の句。「寒山落木 巻五」に入っています。読書の秋などと言いますが、さわやかな初夏にのんびり読書にふけるのもいいもんです。私も枕元に積み上げた子規関係のを適当に取ってはページをめくって楽しんでいます。 子規はこの句を詠む1年前、日清戦争の従軍記者となって現地に赴き、病気を一気に悪化させました。松山での療養を経て秋に東京に戻り、俳句革新などの文学活動を活発化させていきました。 こんなに大望を抱いて死にゆく者がいようかただ明治29年2月には左の腰が腫れて寝たきりになります。3月17日には医師にカリエスと初めて診断されショックを受けます。この日、虚子に宛てた手紙では「貴兄驚き給ふな僕ハ自ら驚きたり」と書き始めます。 覚悟は決めていた。今更驚くこともないともないと思っていたけれども、驚いた。しばらく言葉が出なかった、と打ち明ける子規。その間、頭に浮かんだのは「自分ほど大きな望

    子規の俳句④寝ころんで書読む頃や五六月
  • 柳原極堂の句碑

    子規の俳句革新支える松山市の井手神社というところに柳原極堂の句碑ができました。極堂は子規と同年生まれの友人。子規存命中は「ほとゝぎす」を創刊するなど、その活動を支え、子規没後は顕彰活動に尽力した人です。「友人子規」を書いたことでも知られていますね。 中学時代からの「文友」極堂と子規は中学時代からの友人で、子規は極堂を「文友」と称しました。子規と同時期に上京しますが、学業半ばで帰郷。松山の「海南新聞」の記者になり、明治28年、子規が病気療養のため帰省し、夏目漱石の下宿愚陀仏庵で過ごした時には日参組の一人となり俳句指導を受けました。海南新聞に子規選の俳句欄を設けて子規の俳句革新に協力。明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は新聞社で印刷していたそうです。のちに新聞社を経営したり、政治家になったりもしました。今も活動中の松山子規会の発足にも貢献したそうです。 吾生はへちまのつるの行き処句碑は生誕15

    柳原極堂の句碑
  • 子規と漱石①最後の手紙

    僕ハモーダメニナツテシマツタ僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ 明治34(1901)年11月6日、正岡子規が英国留学中の夏目漱石に宛てた手紙はこのような告白から始まっています。 同い年の二人の出会いは学生時代、22歳の時。互いを認め合い励まし合いながら時を重ね、病いに倒れた子規は立身出世を諦め文学者の道を、漱石は子規の影響で始めた俳句で名を上げつつも英文学者・教育者としての道を進んでいました。 子規を喜ばせた倫敦消息漱石が渡英したのは前年9月。官費留学でした。子規の病いは重く、互いに生きては会えないと思っていました。渡英後の漱石は日から送られてくる「ホトトギス」で子規の消息を確認していたようで、明治34年1月22日付の日記に「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」と書いています。 そして漱石は4月に子規、高浜虚子宛てにロンドンでの暮らしぶりを日記風につづった長文

    子規と漱石①最後の手紙
  • 子規の生涯③芭蕉崇拝を批判

    偶像破壊血を吐いて、寝たきりになって…。病弱。弱々しい。正岡子規についてそんなイメージを持っている人が多いかもしれません。 でも実際の子規は強い人でした。特に精神的な強さは特筆すべき点だと思います。例えば子規は俳句革新を進める手始めに芭蕉をただただ崇拝する風潮を批判し、偶像破壊にチャレンジします。 「俳句分類」と俳句革新喀血から2年後の明治24年(1891)年ごろから子規は「俳句分類」に着手していました。古今の俳句に目を通して季題や内容によって分類していく。半端なく気の遠くなる作業。よく実行に踏み切ったものです。実は、これが一番すごい子規の仕事ではないかとも思っています。 子規は、この作業と並行して明治25年に新聞「日」に「獺祭書屋俳話」を連載し、「このままでは俳句や和歌は明治の間に滅びる」と危機感をあらわにし、俳句革新の第一声を上げました。翌年に連載した「芭蕉雑談」ではさらに大胆に旧態

    子規の生涯③芭蕉崇拝を批判
    masayukisanada
    masayukisanada 2017/05/07
    芭蕉を批判した子規の強靭な精神
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