1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)で、石炭輸送の川舟の船頭の山本福太郎の次男として産まれる。1899年(明治32年)、1893年(明治26年)に開通した筑豊本線によって石炭輸送の代替が進んだため、福太郎は川舟を廃業して一家で上三緒炭坑(現・飯塚市)に移住し、炭鉱夫に転職した。作兵衛も7歳で兄とともに炭鉱に入り、父の仕事を手伝うようになる[3][4]。 1900年(明治33年)5月5日、弟の初節句祝で贈られた加藤清正の土人形を気に入り、何度も写生したことを自ら描いている[5]。入学した立岩尋常小学校(現・飯塚市立立岩小学校)では、先生の目を盗んで絵を描いた。12歳の時には、西洋紙に描いた源平合戦などの絵本を作り、近所の子どもに売って画材や食べ物を買っていた。しかし家は貧しく、子守や父の手伝いで満足に通えないまま、小学校を卒業した[3]。 小学校卒業後、1904年