年をとるにつれ、周りの人が覚えていないことを思い出せる機会が増えていく。私がアイデンティティ・ポリティクスを巡る昨今の議論を真面目に受け取る気になれない理由の1つはこれである。私は既に同じことを経験してしまっているのだ。この映画は前に見たことがあるし、結末だって知ってる。 言い換えれば、私は1990年代のことを生き生きと思い出せるのだ。実際、私は90年代からこの仕事に就いているが、全く同じ考えについて(提示の仕方まで全く同じであることも多い)、人々がどれほどの熱量で議論していたかを覚えている。マキシム誌のような90年代後半の文化製品を取り上げて、「なんてこった、こいつらはセクシストだったんだ」と言ったり、「となりのサインフェルド」 [1]訳注:アメリカの国民的なコメディドラマ。 のジョークの一部には「問題がある」と不満を述べたりする若者を見るのは、愉快であるとともにゾッとする経験だ。若者は
![ジョセフ・ヒース「アイデンティティ・ポリティクスはナショナリズムに似ている」(2023年11月26日)](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/1f048c22133e1238fbcfab2b71af572a26535fba/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fi0.wp.com%2Fecon101.jp%2Fwp-content%2Fuploads%2F2023%2F11%2Fidentity-politics.jpg%3Ffit%3D640%252C427%26ssl%3D1)