2024年5月8日 村上隆(むらかみりゅう)先生の「金銀銅の日本史」を読んだら面白かったので、土肥金山に行ってきた話
2024年5月8日 村上隆(むらかみりゅう)先生の「金銀銅の日本史」を読んだら面白かったので、土肥金山に行ってきた話
大正から昭和前期にかけて、東都を中心に伝統から脱した新しい茶の湯が行われておりました。 その中心にあった人物は益田鈍翁、すなわち三井物産初代社長益田孝(1848−1938)です。鈍翁は明治以来、日本古来の美術品が海外に流出していることを憂い、自ら古美術の蒐集を行うとともに、かつて使われることのなかった仏教美術などの古美術を茶の湯の世界に取り込み、鈍翁独自の茶風を打ち立てます。 大正2年頃、鈍翁は一人の青年と出会います。愛知県一宮苅安賀の素封家森川勘一郎、後の如春庵です。 如春庵は幼少時から茶の湯を名古屋の西行庵下村実栗に習い、15歳ですでに久田流の奥義に達していたといわれていますが、天性優れた審美眼の持ち主で、16歳の時、西行庵宅で出会った本阿弥光悦作の黒楽茶碗「時雨」を懇望し入手します。 さらに19歳にして平瀬家の売り立てで同じく光悦作の赤楽茶碗「乙御前」を買い、所持します。十代
着付けの仕事やきものに関することを綴っています。 キモノライフを楽しむための情報の場なると嬉しいです! ほんとに暑い日だった。 紬の産地の機織り風景は何度か見学させてもらったことはあったが ここ結城の機織りは、その機が独特なせいもあってまた別の風景だ。 クーラーを使っていないのに部屋の中は不思議と暑さを感じない。 織り位置(座面)が低いために全体の機の高さも低い。 その分作業場となっている家との密着度を強く感じる。 天井までの空間が空気の流れを感じさせるようだ。 『地機(じばた)』といわれるこの機は縦糸の端が機ではなく織り手の腰に掛かっている。 織り手の腰で張ったり緩めたりのその微妙な加減が 結城独特のしなやかな風合いになる。 重要無形文化財の指定要件は 1.使用する糸はすべて真綿から手つむぎしたものとし、強撚糸を使用しない 2.模様をつける場合は手くびり(手くくり)によること 3.いざり
ここまでくれば愉快犯的犯行だが、この熊の浴衣のハギレも8.26ガレージセールの荷物に混入してみた。 時代はいつのものなのか分からないが、浴衣本体はなく、あまり裂れのみの出土である。手ぬぐいにはなろうという、わりとたっぷりな長さ。よくぞこんなオモロイ浴衣を作ったものだ。 おっ!よく見ると熊のベルトにオリンピックマークがついている。てことは、ノベルティーグッズだったのか。でもいったい何オリンピックだろう・・・? ※追伸:このキャラクターは1980年モスクワ・オリンピックのマスコット・キャラクターで、「こぐまのミーシャ」というのが正式名称のようです。お知らせいただきました関連サイトの方、ありがとうございました。
着付けの仕事やきものに関することを綴っています。 キモノライフを楽しむための情報の場なると嬉しいです! 結城紬の製作工程 糸染めやさんへ。 糸染めやさんのことを産地では「紺屋(こうや)」さんと言う。 ことわざ“紺屋の白袴”の紺屋なのだがことわざでは一般的な“染め”やさんの事をいうので布に染色をする仕事とある。 かつては染色=藍染めだったのでそういうのだろう。 同じように、昔は結城の柄は縞が主流だったので結城の問屋さんは「縞屋」さんと言う。 ここ大久保さんの染め場では今も“和釜”を使っている。 左隣のアルミボールの中身は桜のチップ。 明治中ごろまでは藍染めを中心とする草木染めが結城紬の特色だったのだが、 明治後期に人工染料が輸入されると堅牢度(色の丈夫さ)で勝る人工染料が急速に普及した。 その後化学染料の研究も進み今では主流とはなっているが 藍染めも草木染めもその優しい色合いを追求し 注文染
着付けの仕事やきものに関することを綴っています。 キモノライフを楽しむための情報の場なると嬉しいです! ある夏の一日、結城紬を製作しているところを訪ねた。 結城紬は茨城県の結城市と隣接する栃木県の小山市で主に作られている。 県をまたぐとはいえ半径数キロメートル以内の範囲だ。 もちろん工程による分業の為、それぞれの工程の専門の場所を 地元の縞屋(買継ぎ)さんの方に案内していただいた。 暑い中ほんとにお世話になりました<(_ _)> まずは『整理やさん』と言われている場所。 製作工程としては最終段階なのだが 注文がついた反物の糊落としをする場所である。 結城紬でこの“糊落とし”は糸や織りと同様とても重要な役割を担う。 この糊抜きの加減で着心地や風合いが左右されるので 着る側にとっては拝みたくなるぐらいいい上がりを期待する工程だ。 柳田さんはもう80歳を超える。 ベテランというより結城紬の“宝”
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着付けの仕事やきものに関することを綴っています。 キモノライフを楽しむための情報の場なると嬉しいです! 着物を本格的に着だしたのは今から10ん年前wです。 多少の下地はあったものの、仕事で着るとなると着付けのスピードと着姿、動いても崩れない安定した着付けが求められ、着付け教室とは少し違う着方を習いました。 襦袢も出張を繰り返す仕事には長襦袢は荷物となるので半襦袢にし、 衿合わせや抜きも崩れない方法を教わりました。 その衿抜きのやり方は今でも続いており目下実施している着付け講習でも採用しています。 その方法をここでご紹介してみます。 少し見づらい写真となりましたがご容赦ください(^。^;) ? まず襦袢にチカラ布を縫い付けます。 そしてそのチカラ布にさらに腰紐(どんなものでもいい)をしっかり縫い付けるのです。 ↓白いチカラ布にモスリンの腰紐を縫い付けてあります。 ? 前で左右の身頃を合わせ、
久々に見た。 ポップ&ラブリーな龍村平蔵製だ。織り出しに「かきつばた」と織り込まれている。夏帯である。 ヒマだったので高島屋でいくらくらいで売っているのか見に行ってみた。大阪難波の高島屋6階呉服売り場だ。真冬ということもあり夏帯の展示品は見当たらず、これに近しい商品は見つからなかったが、「龍村平蔵製」はだいたい80万円から200万円くらいの相場であった。おー、さすが高級品だ。 龍村平蔵さんは明治9年の生まれだ。明治27年(といえば日本は折りしも日清戦争の真っ最中である)に京都で、龍村さんは織り元から自分が気に入った織物ばかりを仕入れて販売するという、今で言う「セレクトショップ」の走りみたいなお店をオープンさせた。 セレクトショップのオーナーであれば必ず誰もが進んでいく道だが、龍村オーナーも仕入れて売るばかりに飽き足らずに、ついにオリジナル商品の製作も手がけるようになる。 やがてこのオリジナ
宮古島に「ゆう」という古着屋さんがある。知人が経営しているのだが、おそらく日本最西端の古着屋だろう。私は一度も行った事がないので、「ゆう」がどんな店かは知らない。ただ、経営者兼バイヤー兼店員の彼女が、なかなか素晴らしい「宮古上布」のコレクションを所蔵しているということは知っている。 年に一度か二度、彼女は東京にやってくる。もちろん、東京中を駆けまわって宮古上布を回収し、島へと持ち帰るためだ。 ご存知の通り、宮古上布はたいへんな高級品だ。その昔、宮古上布は「薩摩上布」と呼ばれていた。琉球を属国化していた薩摩藩の搾取によって、この名品が世間にひろまった為、この名がついたのだ。麻から出来ているとは思えない、まるで絹のような上品なしなやかさと、美しい艶を持つこの布は、内地で幻の布として珍重された。戦後もしばらくは、島の産業の中心はこの「宮古上布」の生産であった。しかし、今は産業に携わる労働力は高齢
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