隅田川は、大江戸で消費する生活物資を運び入れる大動脈であると同時に、春の花見や夏の船遊び、そして向島、浅草、浜町といった川沿いの遊興地の繁栄にもかかわってきました。その様子は、多くの詩歌や錦絵などにも登場しています。 江戸の初期には、戦略上の要因から江戸周囲の大きな川には橋を架けなかったようですが、隅田川では奥州街道に当たる千住大橋が早くから架けられています。やがて江戸の政権安定で、まちは隅田川を東に越えて本所や深川に広がっていきました。そのため、隅田川の東西を結ぶ要所には、幕府によって両国橋、新大橋、永代橋が架けられ、また町民の力による吾妻橋が架けられて、隅田川5橋と呼ばれていたとか。 それらの橋は木材を使用しているため、洪水による流失以外にも、江戸で多かった火災での焼失もあったようです。そこで架け替えに備え、新大橋、永代橋、吾妻橋の3橋では、武士と一部の者を除いて通行料をとっていたとい