2010年4月30日更新。 mixiボイスのほうで長文を書いたので、流れてしまわないうちにメモしておく。 mixiでやりとりした「尖ったヲタがお約束とセックスの重力に引かれて小さくまとまる」問題というのは結構重要だと思っているのだが、俺自身が小さくまとまったなかでごちゃごちゃやっているヲタなので耳が痛い。ヲタは量的には浸透と拡散をしたが、質的にはかつての過剰さを失い、むしろ平凡なものになりすぎたように、ぼくには思える。ではなぜそのようになったのか、少し偽史的記述を試みてみる。 80年代に勃興し、しかし一度は徒花として散るかに見えた「美少女」というイデオロギーが90年代前半にセラムンで復権したことが、ことの始まりである。それ自体は悪いことではない。しかし「美少女」というイデオロギーは強すぎ、ヲタのあらゆるイデオロギーと結合して「美少女にハァハァする人≒ ヲタ」という状況と概念を生み出してしま
図書館で調べもの中、この本が目に。 映画と身体/性(日本映画史叢書 6) 作者: 斉藤綾子出版社/メーカー: 森話社発売日: 2006/10メディア: 単行本購入: 3人 クリック: 181回この商品を含むブログ (5件) を見る たしか鷲谷花氏の論文が載っているはず、と手に取ったら、溝口彰子氏もレズビアン映画批評を寄稿していたことを知る。嬉しい発見。 溝口彰子「「百合」と「レズ」のはざまで:レズビアンから見た日本映画」斉藤綾子『映画と身体/性』pp.313-343. 読んだ内容と感想をざっくりとメモ。 これまで日本映画は,レズビアン像を、「トイレに連れだっていく女子高校生」、つまり、思春期の少女同士の、友情と呼ぶにはあまりに緊密な関係性と、「女とちちくりあう女」、つまり、女とセックスする女、というステレオタイプで描いてきた。前者は、少女同士のこまやかな心理的つながりはあるが、決して肉体関
●百合の表向きの形骸化● WEB拍手より。 最近ゲームをやって、男(男の娘?)×男に目覚めそうな昨今。巷での萌え具合に反して、作中で扱われる同性愛の障害の大きさって、男の娘>BLとかホモ>百合な気がします。 百合は既にファッション感覚というかフツーに属性の1つ、BLは(二次的な捏造が多いのもあるが)友情の上位とあまり障害として機能しないのに対し、男の娘だけは性差に対して真っ向から向き合うものが多い印象。 このゲームでは、中性的でコンプレックスこそあれ男と自覚していて、その子が男なのに主人公に好意を持っていて、だからこそ嫌われたくないから言い出せなくて〜ってのが非常にツボで萌えました。 ただ、一般向け漫画などではこういう好き嫌いのある感情を扱うことは難しいし(だからファッション感覚の男の娘ばかり)、エロマンガでもニッチで話の尺も取れないからやっぱり描かれない、と難しい属性なんですよねぇ。同性
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