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茂木健一郎に関するmotowotaのブックマーク (7)

  • 茂木健一郎さん @kenichiromogi 「のびるやつ、のびないやつ」についての連続ツイート

    茂木健一郎 @kenichiromogi 「連続ツイート」をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 日は、このところ、思っていることについて。 2011-12-06 07:40:00 茂木健一郎 @kenichiromogi のの(1)才能とはなんだろうか。性格的要素も大きいと思う。のびる人と、のびない人がいる。それは、一つの態度である。のびない人は、自分自身の態度で、のびないのだということに気付かない。もったいない。それは、人生の一つの悲劇である。 2011-12-06 07:41:02 茂木健一郎 @kenichiromogi のの(2)話していると、なんとはなしに、この人はのびるか、のびないかということがわかる。わかいやつでのびるのは、とにかく背伸びしているうやつである。好奇心に満ちて、自分がまだよくわからないことでも、世界のいろいろなことに届こうとして

    茂木健一郎さん @kenichiromogi 「のびるやつ、のびないやつ」についての連続ツイート
    motowota
    motowota 2011/12/07
    茂木は伸びない奴なのか?
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 「ぼくは入試の勉強で忙しいから、こういう時にこういう本を読まなければ、精神の平衡が保てないんだ」

    当の知性というものは、そもそも、点数で測ることができるものではない。 私の畏友、和仁陽のことを思い出してもそうである。和仁氏は、東京学芸大学附属高校における二年生、三年生の時の私の同級生だった。私たちの年の「共通一次試験」(当時の大学センター試験)の全国一位。1000点満点中、981点だった。 和仁氏の学科の成績がとてつもなく良かったことは事実だし、そのことは、和仁氏の知性の卓越と、正の相関を持つのだろう。しかし、そこのことは、私が二年間クラスメートとして和仁氏と接して感じた彼のとてつもない才能の、ごく一部分に過ぎない。 より和仁氏の質を示すエピソードは、彼が高校の卒業文集で書いた随想のタイトルである。『ラテン民族における栄光の概念について』。他の人が、高校生活の思い出などの普通のテーマについて書いているのに対して、和仁氏が選択したこのテーマの中に、彼の世界観、哲学がいかんなく反映され

    motowota
    motowota 2010/07/02
    和仁陽みたいなかっこいいことを言ってみたいよな。そういう会話ができる人間も必要。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ○○は脳に良いですか?

    (以前にこのブログに二回に渡って書いた文章をまとめ、また若干の補足をしてあります。○○は脳に良いですか? という問いに興味がある方、そのような質問をされて答えを探している方は、ご参照ください。) いろいろな方とお話していて、良く聞かれるのが、「○○は脳に良いですか?」という質問である。 ○○をべるのは脳に良いですか? 朝○○をするのは脳に良いですか? メディアの中で、「○○は脳に良い」という言い方がしばしば見受けられるので、一つの思考の型として流布しているのだろうと思われる。しかし、科学的には、「○○は脳に良い」という言明には、あまり意味があるとは言えない。 だから、私は、このような質問をされると、一瞬絶句して、それからどのように答えようかと、一生懸命言葉を探す。 なぜ、科学的には、「○○は脳に良い」という言い方をしないのか。きちんと説明をする必要があるように思う。 「○○が脳に良い」と

    motowota
    motowota 2010/05/28
    茂木健一郎らしい「僕ってこんな難しいこと知ってるんだよ~」の羅列だけして読者に伝えようとしない文章、つうか、てめーでも書いてて意味わかってないだろ。このバカは。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: 最大多数の最大幸福

    人は「他人のため」と思って行動した方が、エネルギーも出るし、良質の仕事ができる。 若い時は、自分がなんとかなろう、自分が幸せになろう、と思いがちだが、「自分」というのは世界に一人しかいない。だから、一人分のエネルギーしか出ない。 一方、さまざまな人のために、と思えば、もっと多くのエネルギーが出る。不特定多数の人のためにがんばろう、と思えば、限りないエネルギーが引き出される。 もう一つ大切なこと。「自分」がどんな人間かはわかっている。何を好み、何を求めるかもわかっている。だから、自分のために何かをするのは比較的やさしい。 一方、「みんなのために」という場合は、その「みんな」の中には、様々な人がいる。好みも、性格も、年齢も、文化的バックグラウンドも全て違う。だから、「みんなのために」と思って何かをやろうと思えば、そもそも多様な人間の共通点とは何なのか、「普遍的人間」(universal hum

    motowota
    motowota 2010/05/21
    あいかわらずつまらない文章だな。
  • 茂木健一郎 クオリア日記:  自分の身体性の有限を引き受ける覚悟さえあれば、確率は私たちを解放してくれる。

    たとえば、あなたが、ガンの告知を受け、「五年後生存している確率は、10%です」と言われたとしよう。 科学的に扱うことのできる「統計的真理」としては、それ以上のデータは得られないかもしれない。量子力学の「ダブル・スリット」の実験において、電子が二つのスリットのうちどちらを通過するか、確率的な記述が与えられることのすべてであるように、多くの場合、私たちは「統計的真理」以外の知識を得られない。 しかし、患者人にとっては、5年後に「10%生きていて、90%死んでいる」という状態はあり得ない。5年後には「生きている」か「死んでいる」かのどちらである。「10%生存している」というのは、たくさんの患者を集めてきた時の「アンサンブル」の性質に過ぎない。 統計的手法には致命的な限界があるが、一方で、生の行く末が「確率」で表されるということの中には、私たちを救済する側面もある。 早い話が、確率が100%でな

    motowota
    motowota 2010/05/20
    茂木健一郎らしい、内容がまったくない文章だな。こんなものは、エチカやプロフェッショナルで発言すればよい
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ○○は脳に良いですか?(その2)

    ある程度の蓋然性を持って、脳がより高い働きを果たすことが期待されることが皆無だというわけではない。 たとえば「新しい」経験をすること。周知のように、人間には新奇選好(neophilia)があり、新しい体験を通して、さまざまなことを学ぶ。 あるいは、体験の「多様性」を増大させること。ある一つの体験が、たとえ脳にとってどれほど効果的であったとしても、それだけに偏るのは危険である。性質の異なる、さまざまな体験を蓄積することが、頑強(ロバスト)な脳をつくることに資する。 また、自分の中の確かな知識、経験の基盤を持って、不確実な状況に対すること。つまりは、確実性と不確実性の混ざった「偶有性」(contingency)に向き合うこと。偶有性に能動的にかかわることは、脳の学習を実質的な意味で進めることになる。 新しい体験をすること。多様性を増大させること。偶有性と向き合うこと。これらの処方箋に共通なのは

    motowota
    motowota 2010/04/25
    茂木みたいに、インチキ活動だけやって年収一億って羨ましい。とアホな文章を書く。
  • 茂木健一郎 クオリア日記: ○○は脳に良いですか?

    いろいろな方とお話していて、良く聞かれるのが、「○○は脳に良いですか?」という質問である。 ○○をべるのは脳に良いですか? 朝○○をするのは脳に良いですか? メディアの中で、「○○は脳に良い」という言い方がしばしば見受けられるので、一つの思考の型として流布しているのだろうと思われる。しかし、科学的には、「○○は脳に良い」という言明には、あまり意味があるとは言えない。 だから、私は、このような質問をされると、一瞬絶句して、それからどのように答えようかと、一生懸命言葉を探す。 なぜ、科学的には、「○○は脳に良い」という言い方をしないのか。きちんと説明をする必要があるように思う。 「○○が脳に良い」という言い方の背景にある考え方は、科学的な言葉におきかえれば、脳の状態について、ある評価関数があって、○○によってその「数値」が上がるということを意味する。 たとえば、「朝チョコレートをべるのが脳

    motowota
    motowota 2010/04/25
    茂木よ、この内容、お前のインチキ研究にブーメランで返ってくるだろ?
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