writingに関するne-muriのブックマーク (5)

  • #2191. レトリックのまとめ

    レトリックは,古典的には (1) 発想,(2) 配置,(3) 修辞(文体),(4) 記憶,(5) 発表の5部門に分けられてきた.狭義のレトリックは (3) の修辞(文体)を指し,そこでは様々な技法が命名され,分類されてきた.近年,古典的レトリックは認知言語学の視点から見直されてきており,単なる技術を超えて,人間の認識を反映するもの,言語の機能について再考させるものとして注目を浴びてきている. 瀬戸の読みやすい『日語のレトリック』では,数ある修辞的技法を30個に限定して丁寧な解説が加えられている.技法の名称,別名(英語名),説明,具体例について,瀬戸 (200--05) の「レトリック三〇早見表」を以下に再現したい. 名称別名説明例

    ne-muri
    ne-muri 2015/07/05
    瀬戸 (200--05) の「レトリック三〇早見表」/
  • 自分の脳内で、いかに修造を飼いならせるか - 五月の道しるべ

  • 作品の「独創性」「個性」はどこにある?〜守破離と肩書き - ぐるりみち。

    ──才能とは、ながい期間にわたっての忍耐にほかならない。 この言葉を耳にしたことのある人は、結構いるんじゃないかしら。『女の一生』で有名なフランスの作家・モーパッサン*1の『ピエールとジャン』の序文。とにかくやたら「序文がすげえ!」と、方方で引用されているイメージが強い。 では、このあとにどのような文章が続くのかと言えば……恥ずかしながら、つい最近まで知らなかった。現在、ちまちまと読み進めている『高校生のための文章読』で冒頭に登場し、「文章」を考える上では常に意識に上ってくる問いであるようにも思えたので、一部引用します。 ──大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけ出すことである。なぜならわれわれは、周囲のものを眺める場合に、自分たち以前にだれかが考えたことを思い出しながらでなけれ

    作品の「独創性」「個性」はどこにある?〜守破離と肩書き - ぐるりみち。
    ne-muri
    ne-muri 2015/06/29
    “――大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけ出すことである。”
  • 形式への先入観と、形式のない文章 - 渇きと断章

    形式という文章のよりどころが欲しかった。“よりどころ”という表現が適切でなければ“器”と言い替えてもいい。詩や小説、評論、エッセイ、ルポルタージュ、断章。さまざまな種類の形式のどれかひとつに落ち着きたかった。いまいち私の文章はどのカテゴリーに入るのか自分ではよく分からない。形式という所属のなかで生きたかったし、どれか決まった形式で活躍しているひとびとが自分にはまぶしく見えた。浮草、飛蓬のように寄る辺なき私は心細い。 問題は私自身の先入観だ。たとえば、詩なら「詩」という形式にあらかじめ抱いているイメージがあって、それと自分の書く文章にズレがあったりすると「自分の文章は詩ではない!」と打ち捨ててしまう。その結果、ここには所属できないと嘆くことになる。 私は詩を書きたいと思っていた(「詩を書きたい」と言っている時点で手段と目的が逆になっているのかもしれない)。ところが書いているうちに上のような先

    形式への先入観と、形式のない文章 - 渇きと断章
  • 文章を発表できる時期、できない時期 - 渇きと断章

    人間には波があるのと同じように、文章を発表できる時期とできない時期がある。私は過去に絵を描いていて、いまはこんな文章を書いているのだが、どちらにしてもずうっと人に見せられないときが続いていた。まず創作したい、人に見てもらいたいという意欲はある。あるのだが実際に作業に取り掛かると足がすくんでしまう。思うにペンの走りを止めるのは語彙や文法の知識、アイデアの不足という面もあるけれど、そもそもは「おそれ」の存在が大きいのではないか。作るおそれ、人に見せるおそれ……。それらに悩まされて創作できないあいだ、私はずっと岡太郎さんの「壁を破る言葉(イースト・プレス)」というに書かれた一節を心の支えにしていた。 “人間は精神が拡がるときと、 とじこもるときが必ずある。 強烈にとじこもりがちな人ほど 逆にひろがるときがくる。” いままさに創作できずにあえいでいる人間に宛てた言葉はさまざまなを見渡しても少

    文章を発表できる時期、できない時期 - 渇きと断章
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