鵠沼郷の呼称は平安時代末期に現れるが、境川(当時の呼称は固瀬川)以西、引地川以東で、南辺は海岸線、北辺は江戸時代に整備される旧東海道(国道1号から1963年(昭和38年)藤沢バイパス開通により神奈川県道43号藤沢厚木線に降格)から市道中学通り線、東海道本線一本松踏切を経て藤沢駅南方を迂回し、境川「新川名橋」に至る線までとなるが、それ以前にもすでに重要な街道が鎌倉の大仏坂に通じており、それが安土桃山時代から江戸時代、さらに明治時代へ続く鵠沼村の村域の北の境界線となっていた。 明治3年(1870年)の鵠沼村戸口資料によると鵠沼村の各戸に1番から267番の戸別番号がつけられていた。実際の戸数は285戸が記録されている。 1873年(明治6年)5月1日に神奈川県は区・番組制施行、鵠沼村は第17大区第2小区となる。この際に28の小字に分けられ、引地橋東詰を1番地とし、南東に向かって7000番台までの
境川河口(江の島展望灯台から、2009年5月2日撮影) 境川(さかいがわ)は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。 河川名は上流域において武蔵国と相模国の境界を成すことによるが、両岸とも相模国である下流域においても鎌倉郡と高座郡の境界を成す。上流から左岸が武蔵国多摩郡(分割後は南多摩郡)・相模国鎌倉郡、右岸が相模国津久井郡・高座郡となる。 現在も5市(東京都町田市、神奈川県横浜市・相模原市・大和市・藤沢市)の境界を成しているが、1907年(明治40年)の鎌倉郡藤沢大富町と高座郡藤沢大坂町の合併、1941年(昭和16年)の鎌倉郡村岡村の藤沢市編入、1947年(昭和22年)の鎌倉郡片瀬町の藤沢市編入によって、藤沢市南部においては両岸とも同市域となっている。 かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれ、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く