本地垂迹(ほんじすいじゃく)。平安朝以降のわが国では、明治維新を迎えるまでの永きにわたって、 神々は仏菩薩が衆生済度のために姿を変えて現れたものだと考えられてきました。 たとえば、熊野権現は阿弥陀如来の、あるいは、伊勢内宮は盧舎那仏(るしゃなぶつ)(救世観音(ぐぜかんのん))の垂迹であると。 この考え方は聖徳太子にもあって、 天神地祇(てんじんちぎ)の一々に相当する仏菩薩を崇めることは神意に反することではなく、 仏塔の建立は、かえって皇運を高める、といっています。 『法華経』の教説に本地垂迹の由来があり、 絶対真実である仏が釈迦の姿をとってこの世に出現したことを転じて、 諸仏菩薩がそれぞれの社会風土に応じて身を現すと説きました。 神仏同体、神仏習合。寺々は境内に守護神社を祀り、神社には神宮寺が設けられました。 社前の祈祷に僧も経を唱えたり、舎利を献ずる神社もありました。 あるいは、社(やし