私が「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」ちくまプリマー新書という本を出版したことの一つの理由は、ものごとを賛成と反対で割り切った時に失われるものについて、少しだけ補完したかったからです。 賛成か、反対か。 それを決めなければ先に進めない……という場面はたくさんあります。いまがまさにそうかもしれません。「いまこそ脱原発に向けてアクションを起すとき」という意見に対して、私は反論はありません。でも、私は「対立して多数決で決着をつける」という方法論の必要性は認めつつも「それでほんとうになにかが解決できるわけではない」ということを感じています。 そして「対立」によって「失われること」について書いてみたいと思ったのです。私は異なる意見というものは「それぞれに補完しあう関係」として受け止めます。そのように見ることをあえてしてみます。 脱原発のデモの行く人に対して、デモに行かないという