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artと*studyに関するorzieのブックマーク (3)

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●言葉によってすべてを把捉したいと思っている人、というか、たんに「言葉」が一番偉いと思っている人は、「言葉では把捉できないことがある」というような話をすると、すぐ神秘主義だとか「詩に逃げる」とかバカげたことを言い出すのだけど、全然そんなことじゃない。もっとありふれた、自転車に乗るとか泳ぐとか歩くとか喋るとか見るとかいうこと(それを「する」ということ)さえも、言葉では把捉できず、しかし人は、当然のようにそれやっている。なにかを「すること」は常に「具体的」なことだ。「泳ぐ」ということの詳細を言語によって「記述する」ことはできるが、それは泳ぐことを「把捉する(把握する)」こととは違っていて、その記述を読んだからといって泳げるようになるわけではない(記述が詳細になればなるほど、それは把握からは遠くなる)。こういう事を言うと、泳ぐことを記述することよりも、泳ぐことを実践する方が偉いと言っているかのよ

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    orzie
    orzie 2010/07/15
    《人が話しているのを直接聞いて(見て)面白いのは、その話す内容よりも、話口調やキャラクターなのだとつくづく思った。話を聞くというよりも、人が話すところを見にゆくという感じ。》
  • Snapshot;高みの見物 - Don't Let Me Down

    煙草を買いに出たら、いい天気。 こんな日に、ブログを書いたり・読んだりしてるのは、変態ですね。 さて、マスメディアがダメなのは、すべてが“高みの見物”だからさ。 <高みの見物>というのは、<客観的>であることではありません。 <公正>であることでも、ありません。 一方、<下世話な共感>というものがあります。 つまり互いの下品さとか愚かさで<共感>しちゃう。<注1> いまの<メディア>というのは、この二者のミックスよね。 “マス”がだめなら、“ミドル”がいい、とか、ブログやミクシィや掲示板やツイッターに可能性があるとも、思いません。 つまり、<みんなおなじ>だからさ。 下世話な共感と高みの見物、ミックス。 だから、<知>の出番があるんだが、<大学先生>こそ、この“ミックス-分裂”人格の代表だもんね。 “高みの見物”というのは、なにかを<鑑賞>しちゃう態度よね。 ホラよくあるでしょう、“音楽

    Snapshot;高みの見物 - Don't Let Me Down
    orzie
    orzie 2010/01/12
    作品を「鑑賞」することをいかにしたら超えられるか。作品をご大層な分析するのではなく、いかに自分の中を攪拌するするために、何かを考えるための手がかりにできるか。
  • インターネットマガジン2002年12月号―INTERNET magazine No.95

    orzie
    orzie 2009/03/09
    「インターネットの彼方に」(PDF注意)
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