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倫理に関するpadma37のブックマーク (10)

  • 臓器売買は容認できるか - NATROMのブログ

    ■なぜ臓器が足りないのか? そのとき何がおこるのか?(地下生活者の手遊び)にインスパイアされて、臓器売買について考えてみた。現在の日において、臓器売買は禁止されている。しかし、臓器売買を明確な悪だと断ずることは難しい。以下のような状況を考えてみよう。 あなたは移植医である。患者Rは慢性腎不全で透析中であるが、医学的には腎移植を受けるのが望ましい状態であり、移植を受けられなければ近いうちに死に至る可能性が高い。あるとき、患者Rは、ドナー候補Dを連れてきて、生体腎移植を希望した。ドナー候補Dは健康で、少なくとも医学的にはドナー候補としては理想的であった。しかし、Dの外見が日人には見えなかったので、不審に思い詳しく話を聞いてみると、DはRから金銭的な報酬を得てドナー候補になったことを教えてくれた。ことが露見することはまずないし、なったとしても移植医であるあなたは「臓器売買があったなんて知らな

    臓器売買は容認できるか - NATROMのブログ
  • 「代理出産」希望者の再現ドラマ - 玄倉川の岸辺

    四月に記者会見を開き「代理母ボランティア」を募集した30代女性とその母親の再現ドラマを見た。 新報道プレミアA  母さん私の子産んで…代理出産に挑んだ母娘 以下に書くのはあくまでも再現ドラマの感想である。 モデルとなった女性たち、自分たちの子供に恵まれない不幸な(あるいは「自分たちは不幸だという思いに取り付かれた」)人たちを批判したくはない。 テレビの再現ドラマでは視聴者の感情を短い時間で刺激するため、複雑な人間性をステロタイプなキャラクターとして描くことがよくある。たぶん過剰演出や細かな事実の違いもあることだろう。 繰り返すが、これから書く感想・批判はあくまでも「ドラマ内のキャラクター」「ドラマで描かれた物語」に対してのものだ。 長々しい前置きはこれくらいにしよう。 率直な感想をひとことで言えば「グロテスク」だった。その他には 「お涙頂戴」 「自己憐憫におぼれている」 「欲望に取り付かれ

    「代理出産」希望者の再現ドラマ - 玄倉川の岸辺
  • 善意の車椅子 - カナかな団首領の自転車置き場ダイアリー

    プロ野球チームに所属する某選手が、施設に車椅子を寄贈しているらしいのだが、その車椅子をヤフオクで売りに出した人が居たらしい。 さて、どうやって、その車椅子を手に入れたのか、どうして売る気になったのかは、不明だけれど、その件に関して、某選手は「裏切られた気分。普通に考えれば小中学生でも分かること。悲しいという気持ちを通り越している」と語ったとされている。 どうなんだろう。貰った車椅子は売ってはイケナイんだろうか。もちろん動機や事情が分からないので、即断はできない。が、ソレを売るコトに関して、何か問題があるのか、と言えば何も無いように思うのだが。 善意であろうと、なんであろうと、施しをしたら、その時点で終わりである。その施しを相手がどう扱おうと、それは施しをした者の知ったコトではないと思う。腹が減ってるみたいだから、あんパンをくれてやっても、相手がべるかべないかは、受け取った者の自由である

    善意の車椅子 - カナかな団首領の自転車置き場ダイアリー
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    【自分語り】1推しの卒業によせて . 私の1推し、ゆきりんこと柏木由紀ちゃんが、17年に渡り在籍したAKB48を卒業することになった。 この機会に、ゆきりん推し(48ファン)としての自分自身のことをすべては不可能であるものの振り返ろうと思う。 内容からして世代がわかることも仕方ないし、限りなくゼ…

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    padma37
    padma37 2007/05/01
    よく考えてみたい。
  • はてなブログ

    なぜ日報を書くのか ※この文章は「日報を書くの良いですよ!」という事を進める文章ではないです。 あくまでも自分がScrapboxで外部向けの日記を書いたり、社内のドキュメントツールで日報を書いていく内に思いついた考えを一旦まとめたくて書いています。 元々は社内向けで書いていたので…

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    padma37
    padma37 2007/05/01
    他人の生死さえもエンターテイメント。見世物にならないように、しないように。
  • 貧しい人にほどこすことの善と、それを語ること。ベネディクト16世の「自然法」について - あんとに庵◆備忘録

    このところ、締切にぎりぎりと痛めつけられているので、頭を使いたくない。文字で構成していかねばならないぱそなんかもっての他である。ましてやもともとがロジカルよりは直感的人間なのに、仕事となるとその直感力を駆使しなきゃならんので余計にロジカルさからは遠くなる。 かくして、文字上での論争とか、論理的なことは脳に入らなくなるであるよ。 しかし、ネト仲間のuumin3さんを通じて知った色々な議論を読んでいて、うううむ。と色々考えてしまった。倫理の問題が延々と語られている。あ〜。なんつうか、トマス・アクイナスかドゥンス・スコトゥス辺りにおいで願って整理してもらいたくなるぐらい複雑怪奇な様相を数多のブログが組んず解れつやりはじめている。(というか、中世辺りでも前述の神学者達が、ごにょごにょと同じく複雑怪奇にそういう問題を考えていたわけで、その辺りの書物*1を当たると色々出て来そうだけど、やりたくないよね

    貧しい人にほどこすことの善と、それを語ること。ベネディクト16世の「自然法」について - あんとに庵◆備忘録
  • 因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を

    当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す

    因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を
  • 命を食すのが悪であるならば - Backlash to 1984

    私は昨日、義父と子と甥とともに離れ島に行って、魚やら磯のものを取ってきた。魚は中学生の甥っ子が釣った。義父はワカメを刈り、私はカメノテをむしった。帰ってきて煮てった。そりゃぁ美味かですたい、子らは舌鼓を打ちながらアッと言う間に平らげ、義父と私の酒も進んだ。 命は美味い。鮮度の落ちたものと新鮮なものとをい比べてみたら良い。鱗の輝く魚、血の滴る肉、青々した菜や葉、捲けば芽を出せる種…死んで間があいたものより、さっきまで生きていたもの、まだ死にきってないもののほうが、美味いだろう。それを美味いと感じる味覚は何か。腐ったものは体に悪いから舌が拒むのは当たり前、それは生き物として身に付いた感覚であろうに。だが、人々は暮らしの中で、それぞれに分業しているだけのことだ。 漁師が豊漁を喜び、牛飼いが肉付きを愛で、百姓が作物の出来栄えに胸を張る。それが売り買いのすえに卓に並べられてう者が舌鼓を打つ。

    命を食すのが悪であるならば - Backlash to 1984
  • http://d.hatena.ne.jp/i_orita/20070403

    padma37
    padma37 2007/04/04
    『私は、性暴力の加害者を悪者にして、排除すれば社会から性暴力がなくなるという、幻想に付き合う気はない。』
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