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りょこうの検索結果1 - 10 件 / 10件

  • [三国志の陰の英雄]徐晃と裏方の重要性

    魏の五大将軍の一人とされている徐晃(じょこう)。しかし同じ五大将軍の中の一人、張遼(ちょうりょう)は合肥の戦いで華々しい戦果を挙げています。さらに五大将軍の一人である張郃(ちょうこう)は幾つもの戦いで活躍し、劉備(りゅうび)が建国した蜀の将軍連中から魏の将軍の中で一番恐ろしい人物として恐れられていました。 五大将軍ではありませんが、魏の曹仁(そうじん)は江陵攻防戦の時、周瑜(しゅうゆ)軍に包囲されて部下を救うために数十騎の軍勢を率いて周瑜軍へ突撃を行い部下を包囲から救い上げることに成功しています。上記のように華々しい活躍をしている将軍が魏には多くいますが、徐晃の活躍はあまりパッとせず地味だといえるでしょう。では徐晃が地味なのは何が原因なのでしょうか。今回は徐晃が地味な原因にスポットライトを当ててみました。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参

      [三国志の陰の英雄]徐晃と裏方の重要性
    • [魏の英雄]楽進の壮絶な最期とは?

      魏の五将軍として張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)らと肩を並べた楽進(がくしん)。楽進は常に激戦地区に身を置いて功績を挙げ、呂布(りょふ)討伐戦では一番に突撃して敵陣を陥落させて手柄を立てています。また合肥の戦いでは超絶に仲の悪い李典や張遼と一緒に協力して孫権軍をフルボッコにして追い返すことに成功。このように楽進は戦上手と呼べる実力を示し、魏の将軍の中でも最高位のくらいにつくことになります。 そんな楽進ですがどのような最後を迎えたのか。気になる方もいると思います。そこで今回は楽進の戦上手を紹介しながら、彼の最後へスポットライトを当ててご紹介したいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄

        [魏の英雄]楽進の壮絶な最期とは?
      • [三国志の真実]関羽が尊敬した男、徐晃とは?

        徐晃(じょこう) 魏の名将として知られる徐晃(じょこう)。そして劉備(りゅうび)の義弟であり、五虎将軍筆頭の関羽(かんう)。この二人にはなんにも関係性がなさそうに思えますが、実は深い関係だったのです。今回は徐晃と関羽の関係性について紹介したいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(田畑 雄貴) PC関連プロダク

          [三国志の真実]関羽が尊敬した男、徐晃とは?
        • ほんじつは - 旅芸人の記録

          ちゅうがっこうの どうきかい なんとか かんとか いけそうで いける ときに いっとかないと おしゃべり がわりの にぎやかし それくらいなら なんとかね すわって いても できますし しんぱい かける ことも なく かんれき いわいの どうきかい ほんらいならば かんれきりょこう けいかく してた とこ でしたけど なんじゃ かんじゃで ままならず りょこうの さきも よていして したみも すました こと でしたけど まあ この さきだって いくらでも きかい めぐって くるでしょね いずれ ちがいは そう ないことで いどう するのか そうで ないのか のんべ たちには おなじこと はは さて 45ねんぶりの かおぶれも こんやは やってくるかしら なにより それが たのしみで しょうかんの ふうぼうゐかに どうきかひ 東風 ↓ひとつクリックいただくとうれしいです ↑いつもありがとうご

            ほんじつは - 旅芸人の記録
          • [三国志の疑問]徐晃、実は伝説の将軍?

            魏の五大将軍の一人に名を連ねている徐晃(じょこう)。この五人の将軍の中には合肥の戦いで大活躍して三国志の歴史の中で大活躍した張遼(ちょうりょう)が入っています。 他にも蜀の将軍達や孔明(こうめい)からも恐れられた張郃(ちょうこう)、曹操(そうそう)から信頼され、戦では先鋒を命じられ、撤退する時には一番難しい殿を任せられた于禁(うきん) 、果断な戦をして合肥の戦では張遼と共に活躍した楽進(がくしん)。 彼ら四人は魏の将軍の中でも名将と呼ばれる部類に入る人達ですが、徐晃は彼ら四人と同じように名将と呼ばれる将軍だったのでしょうか?? 結論から言いますとレンは徐晃が上記の四人と同じくらいの名将といえる存在だったと思います。ではどうしてそのように思えるのか。徐晃が名将足りえる理由を説明していきたいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、

              [三国志の疑問]徐晃、実は伝説の将軍?
            • [三国志×ゲーム]徐晃の武器、ゲームでの表現は正確か?

              三国志(演義)には様々な武器を使った武将が登場します。例えば劉備(りゅうび)の義弟・関羽(かんう)は青龍偃月刀を使って劉備の敵をバタバタと倒しています。また同じく劉備の義弟・張飛(ちょうひ)は蛇矛(じゃぼう)を使用しています。更に三国志正史・演義問わず、三国志最強の武将と呼ばれキングダムの主人公・信の子孫である李広(りこう)のあだ名「飛将軍」と呼ばれ、三国志の時代に恐れられた呂布(りょふ)も方天画戟を使っています。 この三人は某アクションゲームのキャラクターとなっていますが、そのゲームの中でもふたりは青龍偃月刀と蛇矛を使って敵兵を倒しています。このゲームには魏の名将と呼ばれる徐晃(じょこう)も登場しますが、徐晃はゲームに登場するような武器を使っていたのでしょうか。今回は三国志演義と正史三国志を元に調べてみました。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライター

                [三国志×ゲーム]徐晃の武器、ゲームでの表現は正確か?
              • [三国志裏話]徐晃視点!曹操はブラック社長だった?

                三国志のアクションゲームのおかげですっかり有名になった徐晃(じょこう)。正史三国志の徐晃は幾つもの戦で大手柄を上げ、魏の武将の中でも優れた将軍として史実に名を刻みます。 そして徐晃の君主であり、三国志の天才であり、名君の誉れ高いことで知られる曹操(そうそう)。徐晃は曹操に仕えますが、配下になった当初から色々な戦に引っ張りだこでブラック企業並に働かされていたようなのです。もしこれが本当であれば、名君で天才な曹操に仕えた徐晃にとって曹操は最悪な君主だったのではないのでしょうか。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM

                  [三国志裏話]徐晃視点!曹操はブラック社長だった?
                • [于禁と龐徳の謎]降伏と討ち死に、その背後の事情

                  魏の五将軍として張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)らと一緒に活躍した于禁(うきん)。彼は曹仁(そうじん)を助けるため龐徳(ほうとく)と一緒に樊城(はんじょう)へ救出に向かいます。 しかし于禁は関羽に降伏してしまい、龐徳は降伏しないで討ち死に。于禁と龐徳にはどうして違いが生まれてしまったのでしょうか。今回は二人のこの違いについて紹介したいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修

                    [于禁と龐徳の謎]降伏と討ち死に、その背後の事情
                  • [三国志の謎]姜維、魏を捨て蜀へ。その真意とは?

                    『姜維(きょうい)の北伐失敗と蜀の衰退へ』では、姜維による北伐が失敗に至る経緯について取り上げました。姜維は元々魏にいた武将ですが、諸葛亮(しょかつりょう)の北伐によって敵の蜀に降伏し、蜀の北伐の大将となりました。 日本の戦国武将と同じく三国志においても敵国に鞍替えして出世した人物は多くざっと数えても、魏では賈詡(かく)、張郃(ちょうこう)、徐晃(じょこう)、張遼(ちょうりょう)等、蜀では法正(ほうせい)、黄権(こうけん)、孟達(もうたつ)等呉では甘寧(かんねい)などが鞍替えによって出世しています。姜維は魏に仕えていたにもかかわらず蜀では大将軍になり北伐を指揮しました。三国志の時代の典型的な人物であると言えます。 今回は姜維による北伐失敗と蜀の衰退までの過程について取り上げます。それから姜維が魏に残り続けていたら蜀はどうなったのかということを考えたいと思います。 監修者 kawauso 編

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                    • [漢王朝の系図]28代の皇帝たち、その歴史を楽しく解説

                      『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。ただし当メディア内での商品の評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはございません。また当メディアで得た収益は、当サイトを訪れる読者様により役立つコンテンツ制作に還元しており、情報の正確性担保に努めています。詳しくは運営者情報と編集ポリシーをご覧ください。 前漢14代の皇帝たち ・初代 太祖高帝(たいそこうてい)・劉邦(りゅうほう) 言わずと知れた漢の建国者。田舎者の彼が皇帝にまでなれたのは良い臣下に恵まれたからに他なりませんが、そのことは彼自身がよく弁えていました。「英雄はかくあるべき」と理想の皇帝像として人々の胸に焼き付いています。 ・第2代 恵帝(けいてい)・劉盈(りゅうえい) 母・呂后(りょこう)によりお飾り皇帝

                        [漢王朝の系図]28代の皇帝たち、その歴史を楽しく解説
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