外にある悪ばかりではなく、自分の中のナルシシズムの問題に真剣に取り組む人が増えることで、この問題からの回復が果たされることを願っている。
前回のメルマガでは、私たちの「社交」を奪い、そのために、また私たちの「学び」をも阻害する他者なき「ネット空間」のナルシシズムについて論じておきました。 しかし、「見たいものだけを見る」というナルシシズムは「ネット空間」だけに限られた話ではありません。たとえば、2016年のブレグジットとトランプ現象を受けて、エマニュエル・トッドは「エリート間にあったのは、むしろ現実を見ないでおこうとする意思だった」(『トランプは世界をどう変えるか?――「デモクラシー」の逆襲』朝日新書)と述べましたが、まさに、現代の「エリート」たちは、「ネット空間」にも似た「リベラル空間」に囚われて、「現実」に学ぶという姿勢を完全に放棄してしまっているかのように見えます。 というのも、先日、友人の勧めで、『ザ・スクエア―思いやりの聖域』(リューベン・オストルンド監督・脚本/2017年/スウェーデン。ドイツ、フランス、デンマー
『Fate/hollow ataraxia』~宗教的救済への志向とナルシシズムからの脱出③ | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために <<ミクロとマクロの接続の失敗・日常と非日常の対比演出①> ■トータルの感想 ■評価の軸をどう設定するか? ■キャラクターに感情移入するためには~ミクロの物語とマクロの物語の接続 a.ミクロ(関係性の領域)とマクロ(ドラマツゥルギー)が、意味を持ったつながりになっていない b.主人公の対比が分かりにくい ■日常と非日常の対比という伝統的スタイル~マクロの脚本は秀逸 <<宗教的救済を志向する主人公・ナルシシズムからの脱出劇の典型②> ■人間存在の「何」をフォーカスして観察するのか? ■極限の悪とは何なのだろう?~まだ僕にはよく理解できていない ■猟奇の内部から物事を見る~なぜそんなことを? <<宗教的救済を志向する主人公・ナルシシズムからの脱出劇
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