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ルソーの検索結果1 - 2 件 / 2件

  • 関曠野 という人を、80年代に書かれた小論から再評価する試み その2|oomorikei

    関曠野さんのルソーへの粘り強い挑戦は、彼が教育論から既に見据えていた、次の段階に至るためには必要な議論であった、2005年刊行の『民族とは何か』まで続くと僕は見てきましたし、今も変わりません 同書は現在でも極めてデリケートな問題を含んでいる「ネーション」に関しての本格的な議論を展開しながらも、危なっかしい綱渡りのようなラインを最後まで落ちることなく終えています しかしながら、YouTubeで観られる日本のアニメ(まどか☆マギカの頃ですね)に薦められるがままにハマってしまい、そのまま「日本すごい」の人になり、かつて自ら引いた絶妙なラインから暗黒面に堕ちてしまい、最後にはネトウヨ爺と化した 東京から自分が住んでいた住居から近い豊橋市に引っ越して来られ、思いつきでしかない散漫な認識のまま、関さんを日本のアニメの世界に導いた御仁との三人でしばしば会い、表に出せないこともいろいろと聞いていたからこそ

      関曠野 という人を、80年代に書かれた小論から再評価する試み その2|oomorikei
    • 『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続々) - shinichiroinaba's blog

      繰り返しになるが、社会契約論の図式は、神の立法とはことなり人々の合意へと国家の存在理由をおおいに「民主化」しているように見えるが、「あらかじめ先取りされた、予定された結果としての目的が原因となる」という目的論的図式は共有している。モンテスキューもルソーも、近代社会契約論が、自然状態という原因から現在の国家、法秩序という結果が生じるそのメカニズムをこのような目的論的図式にはめ込んだことを、想定された原因の中にあらかじめ結果を読み込む回顧的錯覚として批判し、それに換えて、歴史の中にこうした目的論的図式に収まらない、人間の力も思惑も超えた客観的な因果連関の力を見出す。しかしそれだけでは、そのような客観的な因果連関、言い換えるならば自然法則の力と、人間の自由意志とそれによる自発的行為の力の関係がよくわからなくなる。両者の関係をそれほど突き詰めず、前者と両立する範囲での後者、という形で立法、統治を位

        『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続々) - shinichiroinaba's blog
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