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写植屋の検索結果1 - 4 件 / 4件

  • 亮月写植室*熊本に残された「写植屋さん」

    2013.5.11(土) 熊本市内 ●熊本にモリサワ機がある!? 2013年3月初旬、「熊本の実家が写植業を営んでいましたが、この度写植機を廃棄処分することとなりました。」とのご連絡を頂いた。モリサワの手動機が4台、使われていた時のまま保存されているとのことだった。 筆者がモリサワの手動機を見たことがあるのは大阪DTPの勉強部屋さんが所有する MC-6 のみ。機種をお尋ねすると、MM、MC-101、ROBO V が2台、とのこと。それぞれ電動式、電子制御式、画面搭載型の画期的な写植機として世に送り出された機種である。 熊本は筆者が住む岐阜からは非常に遠く葛藤したが、「モリサワ機がそのまま残されているが、近々処分されてしまう」ことがどうしても忍びなく、最期の餞という意味でも取材をお願いした。 亮月写植室初の九州取材。熊本に残された在りし日の写植の姿はどのようなものであるか。緊張感とともに当日

    • コミックMILF4月号、本日発売!! on Twitter: "写植屋さんから相談が。富士フィルム製の写植機用印画紙の生産が昨年9月に中止。「今まで買い貯めたものを使ってきたけれど、それもそろそろ使いきるので、デジタルフォントに移行して欲しい」と。80年間、出版を支えてきた「写真植字」という技術も愈々おしまいデス。"

      写植屋さんから相談が。富士フィルム製の写植機用印画紙の生産が昨年9月に中止。「今まで買い貯めたものを使ってきたけれど、それもそろそろ使いきるので、デジタルフォントに移行して欲しい」と。80年間、出版を支えてきた「写真植字」という技術も愈々おしまいデス。

        コミックMILF4月号、本日発売!! on Twitter: "写植屋さんから相談が。富士フィルム製の写植機用印画紙の生産が昨年9月に中止。「今まで買い貯めたものを使ってきたけれど、それもそろそろ使いきるので、デジタルフォントに移行して欲しい」と。80年間、出版を支えてきた「写真植字」という技術も愈々おしまいデス。"
      • 写植屋の思い出 - 写植屋・悠さん

        小生が大事に使っていた「写植糊」がついになくなった。最近は写植印画紙ではなく、いろいろな紙の接着に使っていた。速乾性なので便利なのである。 また、写植屋時代に使っていたものが消えた。いま手元に残っているものは、修正ペン、見本帳、写真植字Q数表、写真植字ピッチ表などと文字盤だけになった。 文字盤はメインプレート、サブプレートともかなりの数が残っている。相棒のPAVO-JLを分解廃棄したとき、銘板と文字盤は写植屋だったことを忘れないように手元に残しておくことにした。冗談でいずれは文字盤で屏風をつくろうと……。 SK-3RYの時代は文字枠に文字盤(サブプレートの大きさ)を嵌めるのだけれど、PAVOの文字盤のように磁石と穴に嵌めこむようなものではなく、文字盤によってはまわりに2ミリぐらいに細く切った紙を貼り、枠の中の文字盤の位置を微調整したりもした。古い文字盤は2枚のガラス板に挟み込んだネガの字母

          写植屋の思い出 - 写植屋・悠さん
        • 粟津潔 60年の軌跡 - 写植屋・悠さん

          粟津潔 60年の軌跡 複々製に進路をとれ 2009年1月24日~3月29日 川崎市市民ミュージアム この展覧会は、粟津潔(1929年-)が芸術活動を始めた1948年頃から現在までの60年間に生み出された作品を網羅的に紹介する内容です。粟津潔は、時代を先駆けてグラフィックデザインの分野を開拓した先駆者のひとりで、ペインティング、映像、環境デザインなどの領域においても活躍し、生涯にわたってジャンルを横断した幅広い芸術活動を行いました。本展覧会のタイトルである「複々製に進路をとれ」は、粟津潔自身が雑誌の対談記事中で使っている言葉です。これ自体は、もとは赤瀬川原平が1960年代後半にヒッチコックの映画のタイトル「北北西に進路をとれ」のパロディで使い始めたといわれていますが、1960年代末から1970年代にかけて、粟津だけでなく、松本俊夫など同時代人にも広く使われていました。 ヴァルター・ベンヤミン

            粟津潔 60年の軌跡 - 写植屋・悠さん
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