「○○序説」というタイトルの論文や著書にろくなものはない(経験則)。 前エントリの最後では、「教育」を内在的に語ろうとするとき、人はみな「教育さん」になってしまう、それはなぜなのか、という形で「教育さん」問題を定式化した。 当然、「教育さん」とは何なのか、それをまず提示(定義)してくれ、と求める声もあるだろう。しかし、「教育さん」とは何なのかという問いに十全に答えることができるとき、すでに「教育さん」問題というのは解かれてしまっている、その問題が解かれる段階に至るまでは「教育さん」とは何かという「定義」を下すことはできない、そのようなものとして「教育さん」はある、このことは確認しておきたい。 「教育さん」とは誰か、それは「教育」を語るときに誰もが陥ってしまう、そのような存在である。 「教育」を語るとき、言う必要もないはずのある種の「過剰」を抱え込む、あるいは、「教育」を語るために援用する理