日清戦争の結果、清国の脆弱性が露呈し、列国は次々と清国から利権を獲得しました。明治33年(1900)、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を唱える義和団が北京の列国公使館を包囲し、清国政府も列国に宣戦布告しましたが(北清事変)、列国は連合軍を組織して清国軍を鎮圧し、翌年、北京議定書が結ばれました。 事変を機に満州全土を占領したロシアを警戒し、日本と英国は、明治35年、日英同盟協約を締結しました。その後、満州と韓国の権益について日露間で行われた交渉は決裂し、明治37年2月、両国は宣戦布告し、日露戦争が始まりました。 戦局は日本に有利に進みましたが、長期戦に耐えうる国力がなかったため、アメリカに仲介を依頼し、明治38年9月、日露講和条約(ポーツマス条約)が調印されました。これにより、ロシアは韓国における日本の指導権・監督権を承認し、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道・付属利権を日本に譲渡し、南樺太を