1565年(永禄8年)7月、犬山の城下町とその周辺から次々と火の手があがる。「織田信長(以下、信長)、犬山へ侵攻」「犬山城城主・織田信清、籠城」来るべきときが来た! と町人は感じていた。 尾張国(愛知県西部)と美濃国(岐阜県南部)を木曽川で別ける国境の町犬山では信長が侵攻し町の至るところに火を放たれて焼かれたと記録が残っている。今ではその遺構を示す物証は残っていないが、尾張平定の同時期に信長から直江景綱への書状や、美濃国の寺の住職が他の寺に宛てた書状から犬山は信長が侵攻した際に焼かれたと書き残されている。 犬山市にある瑞泉寺は信長が犬山侵攻の際に焼かれている なぜ信長は犬山を攻めたのか? なぜ町を焼いたのか? 信長を知る上で最も有力な資料『信長公記』や地域に残された口伝、燃やされた側の立場から犬山侵攻戦を検証、周辺国の事情も踏まえてまとめてみた。 なぜ信長は犬山を攻めたのか? ~準備編 1