現在の愛媛県松山市生まれ[1]。1879年に黄檗宗から得度し、1893年に松山の安楽禅寺の住職となり、斬新な説教と指導で若者たちから尊敬され寺は栄えた。かつての師匠福山大道の依頼で安城寺の住職を継いだが、生活が立ち行かず1910年に還俗し大阪へ移住する。 貧困と病の中で、後に御嶽教徳光大教会教祖となる金田徳光(かなだ とくみつ)と出会い、1916年4月、長男の御木徳近と共に徳光大教会教師となる。金田教祖の信望を得て「御木さん、私が死んだら、ヒモロギを植えてそれを毎日拝んでいなさい」との遺言を託される。1919年に金田が死去した後は、徳光大教会は疲弊し解散した。 金田の遺言を守り彼の教えを完成させた御木は、1924年に正統な後継者として徳光大教会を再建。この頃、橋本鄕見が徳一の元を訪れる。徳一は橋本に「金田教祖の供をして、私(徳一)が高野山に行った時のこと、金田教祖は私に『御木さん、私もこの