並び順

ブックマーク数

期間指定

  • から
  • まで

1 - 5 件 / 5件

新着順 人気順

browneyes140の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • Khuda Kay Liye (神に誓って)超私的メモ

    最初に言っておくと、「映画の感想」では、まったく、ない。 昨日劇場を後にしてから寝るまでの間に、アタマやココロに浮かんできたり、過ぎってきたものの一部は、既に、熱を帯びているうちに極力 SNS に放り投げてある。 そういう作業自体を、すかさずしておきたい感じの作品だった。 その程度には、なんというか、個人的に思い入れの強い映画であったのかも。 SNS に放り投げただけでは、今現在どれだけ熱を帯びてても、時と共に冷めてっちゃって、タイムラインだけでなく記憶からも、これだけの熱量があったという事実すら流れ去ってしまいそうで、それすら悔しいのでここに纏めておく。 まぁ、往々にして、熱を帯びてたものを、冷めた目で後から眺めたら、空回りっぷりがみっともなかったりするんだろうけどねw 基本は放り投げたものの再構成だけだけど。 アサッテの方に向かって個人的思い入れが強すぎるので、考えてみると今に至っても

      Khuda Kay Liye (神に誓って)超私的メモ
    • アフリカプレイリスト整理

      腰の重かった YouTube のアフリカ関連プレイリストを整理しますた。 Coupé-Décalé と Soukous については今のうちに細分化しといた方がいい気がしたので。 面白いことに、整理前プレイリストまるまる2つ分(=400曲)が、Coupé-Décalé 78 、Soukous が 79 と、どちらに寄ることなくでした。 欲を言うと Kuduro と、その他仏語圏、みたいなのも避けときたい気はするけど、まぁいいや。 ホントは南亜細亜もやりたいんですけどね。現時点で既にプレイリスト5つ分なんですもの。辛いわ。 この2つのプレイリストは作業用 BGM としても楽しくなりそうだわ。あと「その他」にも、既に忘れかけてた興味深いのいくつかありそう。 あぁ、新しいのも掘る暇ないのに…! Soukous 01 (Africa) Coupé-Décalé 01 (Africa) Aamir A

        アフリカプレイリスト整理
      • 異界接近遭遇(大袈裟)

        201401230258 ピカード艦長の Facepalm アニメーション GIF は、削ってしまった段落に出てきたキーワード用に拾ってきたんだけど、その段落にはもはや用がないので、ピカード艦長にも存在意義はなくなってしまったのだが、もったいないので貼っとこう。タイトルにはちょっとだけ合いそうじゃんね。 しかし、なんで一時期、英語圏のネットで(主にピカードの) Facepalm が無駄に流行ってたんだろう。 Facepalm - Wikipedia, the free encyclopedia 今日は、おとといの、時間を作るの作らないのってヤツの真逆を行くような一日だったな。 月曜は㌧でもなかったものの、以降、今週は珍しく暇なくらいなんですよ。おかしなもんで、そうなると、退職しちゃった団塊世代のモーレツサラリーマン(死語)のお父さんみたいに、余暇を持てあましてしまう。 日々、やりたいと思い

          異界接近遭遇(大袈裟)
        • 写真の作品としての最終形態

          中平卓馬の写真展が今日(2011/01/08)から2箇所で同時開催開始、というコトで、ハシゴしちゃおうかとも思ったけど、軽く体調不良もあり、明日で会期を終えるマグナムと同じ銀座で開催している方のみ見に行ってきた。 中平卓馬 写真展 「Documentary」 | 銀座 BLD GALLERY ビーエルディーギャラリー マグナム・フォト東京支社~ストックフォト、写真家・写真展情報のご案内~ 両展覧会の感想系は書くとしても別途記事にて。 ということで、ここはそこからあれこれ派生して浮遊した厨二的思考をただまとめておくのみに留めます。 見終わってふらふら写真撮りながら東京駅に向かい、帰りの電車で(いつものようについったで)、ふと、 清澄白河は展示内容別なのかすら。銀座の作品は大船界隈の海ちかくの色々な風景だった。てか、今朝見かけた東海道線に乗る中平卓馬の写真の頃撮りに行ってた作品なのかな。あれ丁

            写真の作品としての最終形態
          • 需要と供給、あと火事場とドーパミン

            あちこちで喧々諤々ある気がするけどまだちゃんとは目にしてないのだけれど。 ゴーストライター騒動、あれは名義人と実制作者だけを当事者として彼らに眉をひそめる、というよりも、それを消費してきた一般消費者や批評家や各種ギョーカイ――どこになるんだろう、クラシックギョーカイ? 音楽ギョーカイ? それに関連する各種メディア?――も含めて、一体「何」を求めていたのか、そして、それに「何」を提供していたのか、という視点で考え続けてる。 他の人も似たようなコト言ってましたが、そうやって考えてみると、意外とその需要と供給における「何」の部分は、きちんと一致してるのですよね。求められてたのも提供されたのも「作品」ではなく「ストーリー」なんだろうな、と。 この辺は実は、上手く書けてないものの、先日書いた記事「盲目的な評価と引っ張り上げられるということ」でうにゃうにゃ言ってたのと、個人的には根っこの違和感はとても

              需要と供給、あと火事場とドーパミン
            1