加計呂麻島瀬相に置かれていた奄美群島における日本海軍の中心部隊・大島防備隊本部の軍事施設が新たに発見された。 同地には1941年9月に「大島根拠地隊」が編制され、1942年1月に「大島防備隊」が置かれたが、1945年4月には大規模な空襲を受けて輸送艦など2隻が撃沈、102人が犠牲となったという。[南海日日新聞]
青谷町養郷で古代官道「山陰道」跡とみられる大規模な道路遺構が発見された。 16日午前9時半と午後1時から現地説明会があるという。[毎日新聞]
古墳時代の建物跡が残る「辻遺跡」で5世紀前半の竪穴建物群の跡と、県内では初の出土となるガラス小玉の鋳型のほか、製鉄用の炉と風を送る「ふいご」を接続する粘土製の部品などが発見された。 本日午後1時半から現地説明会があるという。[中日新聞]
川井町の下田南遺跡で、飛鳥~奈良時代の建物跡22棟などが発見された。 本日午前10時と午後1時から現地説明会があるという。[中日新聞]
ハット岬にある小屋「ディスカバリー」で100年超前の赤玉ねぎが入った袋が発見された。 この小屋は1902年に英国の南極探検家ロバート・スコットが建てたという。[スプートニク]
三次市甲奴町に江戸~大正時代にあった「抜湯(ぬくゆ)村」の検地帳が市内で発見され、三次市に寄贈された。 現在の甲奴町と吉舎町にまたがって存在した「上川村(1912~1955年)」を構成した4村の検地帳では唯一行方不明だったという。[中国新聞]
江戸時代中期の御触書(おふれがき)が田光(たびか)の民家で発見された。 42×75cmの木簡に「徒党、強訴、逃散に同調せず、こうした計画を知って訴え出たなら、褒美として銀を与え、場合によっては名字帯刀を許す。明和七年(1770)四月 奉行」と墨で書かれているという。[伊勢新聞]
伊勢神宮に仕えた斎王の宮殿があった斎宮跡(国史跡)で、飛鳥・奈良時代の初期斎宮中枢域の建物2棟と塀、塀に付属する門跡が発見された。 26日午前10時半と午後1時から現地説明会があるという。[伊勢新聞・朝日新聞]
平野町の玉津田中遺跡で弥生時代前期の土偶と石棒が発見された。 土偶と石棒は縄文時代の祭りなどで使われたとされ、午後1時半から現地説明会があるという。[神戸新聞]
ワトフォードの宿屋跡で19世紀頃に作られたとみられる瓶(びん)が発見された。 中には人間の歯や釣り針、ガラスの破片、謎の液体が入っており、呪いから身を守るためのお守りとみられるという。[カラパイア・エキサイトニュース]
サッカラ遺跡でローマ帝国支配下の1~2世紀に造られたカタコンベ(地下集団墓地)が発見された。 ナイル川の流域では初の発掘例で、ミイラや遺骨のほか、素焼きの女神像が見つかったという。[北国新聞]
北野天満宮の境内で、お経を入れた経筒の容器とみられる平安時代後期の壺が発見された。 文献や絵図には記録がない「経塚」があったとみられ、13日まで同天満宮宝物館で展示するという。[京都新聞]
岐阜城天守閣西側で、織田信長が城主だった時代(1567~1575)に築いたとみられる「天守台石垣」が発見された。 天守閣があったとすれば日本最古のもので、14~18日の午前10時~正午と午後1~3時に現地公開するという。[岐阜新聞・毎日新聞]
真珠湾攻撃にも参加し、ミッドウェー海戦で沈没した航空母艦「赤城」が北太平洋海底で発見された。 同戦で沈んだ日本海軍の空母のうち、船体が確認されたのは「加賀」に次いで2隻目だという。
大正時代に北海道大助教授・小久保清治が撮影した支笏湖や樽前山の写真10点が発見された。 湖や山などの自然、人々の様子が当時の写真機の記録媒体だったガラス乾板にモノクロで鮮明に捉えられているという。[苫小牧民報]
新屋常夜灯の内部から、江戸時代の文久年間(1861~1864)建造を示す記述が発見された。 市内には現在50基の常夜灯が残っているが、建築年が判明していないものが多いという。[静岡新聞]
天正十八年(1590)の小田原征伐直後、豊臣秀吉が足利頼淳(よりあつ。頼純)に送った書状が発見された。 頼淳は室町時代に関東地方を治めていた鎌倉公方の末裔で、家康を牽制(けんせい)するため「かつての権威」を利用しようという意図があったという。[産経新聞]
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