宗貞は承和十一年(844)二十九歳の時、蔵人(くろうど。蔵人所職員)として出仕した(「詐欺味」参照)。 翌年には従五位下を賜り、左兵衛佐(さひょうえのすけ)・左少将(さしょうしょう)を経て、嘉祥二年(849)三十四歳で蔵人頭に昇進した。つまり、天皇の筆頭秘書に昇り詰めたわけだ(「古代管制」参照)。 時の帝は、嵯峨天皇の第一皇子・仁明天皇(にんみょうてんのう)。 宗貞より六歳年上の、温和で聡明な文学壮年であった。天皇は彼を信頼し、彼は天皇を尊敬していたと思われる。 ある年、五節舞(ごせちのまい)があった。 五節舞とは、豊明節会(とよのあかりのせちえ。「 泥酔味」参照)で催された女舞のことである。 舞姫には、公卿や国司の娘の中から美女ばかりが選ばれるので、役人たちに人気があった。 宗貞も、毎年この女舞を楽しみにしていた。後には出家する彼も、それ以前は「すけこまし」で通っていた男である(在原業平
元慶寺(京都市山科区) ・欣浄寺(京都市伏見区) ・小町寺(京都市左京区) ・二ツ森(秋田県湯沢市) ・美男塚(山形県米沢市) 深草少将は名前ではない。 山城深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味である。 本名は良峰宗貞(よしみねのむねさだ。姓は良岑とも)。出家して遍照(へんじょう。遍昭とも)といった。有名な六歌仙の一角をなした、あの男のことである。 宗貞の父は良峰(良岑)安世(やすよ)といった。 平安京造営者・桓武天皇の皇子で、大納言まで昇進したエリート官僚である。 博学であった安世は、異父兄・藤原冬嗣らと日本最初の勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を選上、平安時代初期の正史『日本後紀』や、勅撰漢詩文集『経国集』編集にも携わる一方、狩猟を趣味とし、音楽にも堪能(たんのう)であった。 延暦二十一年(802)、安世は良峰姓を賜って臣籍降下された。宗貞が生まれる十四年前のことである。し
御覧のように、三社とも創業年代はきわめて古い。 当初は単なる別個の自然神や地主神を祭る宗教団体であったと思われるが、平安中期に業務提携を結び、観光会社「熊野三山ツーリスト」に発展した。 商品は、熊野三山を巡るツアーである。 これにいくつか途中のトッピング(名所)を加えていく。 トッピングは多い。 日本最大の落差を誇る那智の滝(和歌山県那智勝浦町)、奇跡の空中宗教都市・高野山、修験道(しゅげんどう)のメッカ・金峰山(きんぷせん・きんぶせん。奈良県吉野町)、日本一の桜の名所・吉野山(吉野町)、日本最多雨地帯・大台ヶ原(おおだいがはら。奈良・三重県境)、日本最古級の温泉・白浜(しらはま)温泉(和歌山県白浜町)、聖武天皇も絶賛した天下の絶景・和歌浦(わかのうら。和歌山市)などなど。 これらを加えたり外したりすれば、無数のツアーができていく。 コースは様々だが、紀伊路(西周り)と伊勢路(東回り)に大
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