安康天皇横死を知って、大泊瀬皇子は即座に動いた。 まず、兄の八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)を責め、問い詰めた。 「眉輪王が大王を殺した。ヤツをそそのかして殺させたのは、お前だな?」 八釣白彦皇子はびっくりした。そんな知らせはまだ聞いてもいなかったであろう。逆に弟を疑って聞き返したかもしれない。 「どうして私が知らないことを、すでにお前が知っているんだ?」 大泊瀬皇子は怒った。 「そうやってしらばくれているところを見ると怪しい。怪しすぎるっ」 そう言って殺してしまった。 続いてもう一人の兄、坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)を責めた。 「眉輪王が大王を殺した。ヤツをそそのかして殺させたのは、お前だな?」 坂合黒彦皇子はびっくりした。声も出ずにいると、大泊瀬皇子はますます怒り出した。 (このままでは殺される!) そう思った坂合黒彦皇子は、スキを見て逃げ出した。眉輪王も共に逃げ、葛城氏
翌安康天皇二年(455)正月、中蒂姫皇女は大后(皇后)に立てられた。 安康天皇には皇子女はいなかった。 つまり、継子ではあるが、眉輪王にも皇位の可能性が見えてきたのである。 安康天皇は中蒂姫皇女を寵愛(ちょうあい)していた。 実子のない安康天皇にとって、愛する女の息子は、真の我が子同然であった。 また、安康天皇は、妻の兄・市辺押磐皇子(いちのべのおしはのおうじ)とも懇意にしていた。 いずれは彼に皇位をとも考えていたようである。 「後継者はオレではないのか」 大泊瀬皇子は危機を感じたであろう。 「ここままではまずい」 そして、よからぬことを考えたかもしれない。 安康天皇三年(456)八月、安康天皇は神を祭った後、楼閣に上り、酒を飲み、中蒂姫皇女のひざ枕で横になった。 「朕(ちん)は幸せだ」 安康天皇はネコのようにほおをすり寄せて丸くなった。 何も言わない妻の顔を見上げて問うた。 「なんじは幸
長徳元年(995)、都を天然痘(てんねんとう)の嵐が吹き荒れた。 人々はバタバタと倒れ、五位以上の官人六十名以上が死亡、権中納言(ごんちゅうなごん)以上の閣僚十四人中八人があの世へ旅立っていった(「 テロ味」参照)。 最高権力者である関白藤原道隆(みちたか)は四月十日に死んだ。 「ぜひとも我が息子伊周(これちか)を関白後継に」 道隆は、死ぬ間際に一条天皇(いちじょうてんのう)に懇願していたがかなわず、次兄・道兼(みちかね)が関白職を継承した。 「トンビのようにかすめ取ってやったぞ」 その道兼も五月八日に死んでしまう。 伊周は叔父の死を喜んだ。 「やった! これで次の関白はボクだ」 ほとんど確信していた。 だいたい自分より地位が高い者は生き残っていない。このままいけば、ところてん式に自分は関白へと押し出されるはずだった。
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