あるとき、行基は東の山のほうに不思議な雲がたなびいているのを見つけた。 温泉から上がる湯煙を発見したのであろう。 「あれはなんじゃ?」 好奇心旺盛な行基は、その雲がわき出ているほうへ歩いていった。 行基は山深く分け入っていった。 あたりは湯煙の霧に包まれて、視界がままならなくなってきた。水音がするのでたどっていくと、滝があり、ごつごつした岩場に出た。 そこにカラスがいた。 ただのカラスではない。三本足のカラス、日本サッカー協会のシンボルにもなっている、あのヤタガラスである。 ヤタガラスは、 「くぇぇー!」 と、鳴くと、行基を導くようにピョンピョン飛び跳ねていった。 行基がヤタガラスについて川をさかのぼっていくと、岩間に温泉を発見したという。 ※ 鳥類バージョンは、有馬・草津・山代・山中・東山・木津温泉などがあります。 ※ 有馬では、カラスに導かれて大国主神(おおくにぬしのかみ)と少彦名神(
こうして光仁天皇は即位したが、すぐに皇后は定められなかった。 その訳は、藤原良継(よしつぐ)・百川(ももかわ)ら式家と、藤原永手(ながて)ら北家の思惑が異なっていたからにほかならない。 良継・百川ら式家が光仁天皇を推したのには、理由があった。 実は百川は、光仁天皇の次男・山部親王と仲が良かったのである。 百川は確信していた。 「山部親王こそ、天皇にふさわしい器だ」 それにはまず、その父・光仁天皇を天皇にしておく必要があった。 そしてもう一つ、その生母・和新笠(やまとのにいかさ)を皇后にしておく必要もあった。 一方、永手ら北家が光仁天皇擁立に賛成したのにも理由があった。 実は最近、永手は娘・曹司(そうし)を光仁天皇に嫁がせていたのである。 つまり、曹司に子が生まれれば、自分は天皇の外戚(がいせき)として実権を握ることができる。 それにはまず、その夫・光仁天皇を天皇にしておく必要があった。 そ
月日は流れた。 井上内親王は、天平勝宝六年(754)頃に酒人女王(さかひとじょおう)を生み、天平宝字五年(761)頃に他戸王(おさべおう)を生んだ(他戸の生年については、751年説などもある)。 逝く人々もいた。 天平感宝八年(756)に父・聖武天皇は崩御、天平宝字六年(762)には、母・県犬養広刀自も死んだ。 妹婿・塩焼王は、恵美押勝の乱に加担してぶっ殺された。 神護景雲四年(770)八月四日、異母妹・称徳天皇も崩じた。享年五十三。 異母妹の死には、悲しみはなかった。 「あの人は好きに生きてきたんだから、満足でしょう」 称徳天皇と道鏡の関係は、姉も知っていたことであろう。そして二人にまつわる数々のエロ話も、耳に入ったことであろう。これらの話はおもしろすぎるので、いずれまたの機会に紹介したい(「女帝味」「奈良味」参照)。 問題があった。 誰が次の天皇になるかである。 称徳天皇には子がなかっ
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