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ラノベに関するride_nippaのブックマーク (3)

  • ラノベ作家になりたいなら、ラノベだけは危険だけど最低限ラノベを読むべき

    榊一郎@新たなる旅立ち? @ichiro_sakaki そういえば昔、「ラノベ作家にはなりたいけど、ラノベは一切読まない」とかドヤ顔で言う生徒とかいたけど。教える側としても途方に暮れるわな。ラノベ「だけ」も危険だけど、それすら読まないとかどうやねん。勿論、一般書籍もその子は殆ど読んでなかった。「ゲームはたくさんしてますから」いや待て。 榊一郎@新たなる旅立ち? @ichiro_sakaki というか、パターンがあるのかねえ。「漫画家になりたいけど、漫画は読まない」って人にも会ったことがある。その人の根拠は「手塚治虫の漫画家は漫画読みになってはいけないと書いてあったから(ドヤ顔)」だったわけですが、私は漫画家じゃないけどさ。多分、それ意味が違うと思うなー。 榊一郎@新たなる旅立ち? @ichiro_sakaki 当たり前だけど、漫画の文法、ラノベの文法、アニメの文法、ゲームの文法があって

    ラノベ作家になりたいなら、ラノベだけは危険だけど最低限ラノベを読むべき
  • 皆が幸せになることをあきらめないという選択―『とらドラ!』に見る「幸せ」の有り方 - 新・怖いくらいに青い空

    誰一人も犠牲にすることなく、全員が幸せになるような選択は有り得るだろうか。時と場合にもよるが、そのような選択は極めて難しいと言えるだろう。また、他の皆の幸せのために、自らが犠牲になるという選択は許されるのだろうか。そして、誰かの犠牲によって、あるいは自己犠牲精神によって得られた「幸せ」は、当に「幸せ」と呼べるのだろうか。今回は、ライトノベル『とらドラ!』を読み説くことで、このような「犠牲」と「幸せ」について考えてみたい。 とらドラ!中盤における最大の山場と言えるのが第7巻のクリスマスパーティーである。大河は、竜児と実乃梨の幸せのために、自らが犠牲になろとしていた。パーティーの最中、大河が居ないことに気付いた竜児は、たった一人で大河の家へ向かう。この時の竜児の心境を表わす記述を引用しよう。 あの眩いツリーの下で一緒に笑っていられなければ、報われることなんかないではないか。誰のために今夜はこ

    皆が幸せになることをあきらめないという選択―『とらドラ!』に見る「幸せ」の有り方 - 新・怖いくらいに青い空
  • ラノベ「とらドラ!」 レビュー - 詩になるもの

    そんなわけで。竹宮ゆゆこ「とらドラ!」を1巻から10巻まで通読した。アニメは全話リアルタイム視聴していたけれど、原作に触れたのは先月になってからだ。とても優しくて、胸が熱くなるようなラブコメディだった。 1 この世界に生きる者は誰だって、幸せになりたいと願っていることだろう。自分自身だけではなく、家族や友達、恋人といった自分の周りにいる人たちも幸せになれたら、もっと素晴らしい。 けれど、果たして僕たちはみんなが幸せになるビジョンを素直に信じられるだろうか。一人では、不安なはずだ。自分は幸せになれるのか、幸せになる権利があるのか、幸せになる力があるのか、といった問いかけがいつしか生まれて心を苦しめる。ましてや、幸せに暮らしていけなかった人たちを身近に見てしまった者は、彼らの在り様を負の方向へ内面化してしまう節がある。「あの人たちと同じように、私も幸せにはなれないのだ」、と。*1 「[…]望ん

    ラノベ「とらドラ!」 レビュー - 詩になるもの
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