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震災に関するride_nippaのブックマーク (5)

  • 「復興」という名の悪夢

    仕事柄、物事の暗い側面を見つめることが多い。 きのう阪神淡路大震災から18年を迎えた神戸。 多くの観光客で賑わう街に いま震災の傷跡を見ることはない。 しかし、人知れず、復興の“後遺症”に苦しむ人たちがいる。 「復興災害」という言葉さえ囁かれるほどだ。 神戸市でも、震災の被害が甚大だった長田区。 新長田駅の駅前には 復興のシンボルのように巨大な鉄人28号が立つ。 この街では震災後、 神戸市による再開発計画が強力に推し進められた。 44棟もの商業ビル、高層住宅を建設し、 長田地区を 神戸の副都心として再生させようというものだった。 震災で店を失った地元商店街の人たちは、 長田で商売を続けようとすれば この再開発計画に乗るしか選択肢はなかった。 再開発は 被災した土地・建物を市が買い取り、 ビルを建設して商店主たちに売り戻す方式で行われた。 賃貸は認められず、 商店主たちは 新しくできた再開発

    「復興」という名の悪夢
  • 時論公論 「がれき受け入れ"拒否"の理由」 | 時論公論 | 解説委員室ブログ:NHK

    【リード】 ニュース解説「時論公論」です。 難航していた震災がれきの「広域処理」がようやく動き出しました。国が新たな対策を打ち出したことで受け入れを表明する自治体が増え始めたのです。しかし問題はこれからです。市長や議会が決断しても地元住民との話し合いはこれからで、特に最終処分場周辺の住民の抵抗感は小さくないと見られるからです。今夜は、苦悩の末「受け入れ反対」を表明した地域の実情を見て、どうしたら乗り越えられるのかを考えます。 被災地ではがれきの処理が計画より大幅に遅れていて、広域処理の対象になる岩手・宮城では処理が済んだのはわずか6.8%にとどまっています。広域処理は新たな財政支援が示されたことなどで、ようやく受け入れや、受け入れの検討を表明した自治体が増え始め、NHKのまとめで70を超え、先月末の2倍になっています。 しかし実際に受け入れが進むかどうかのカギは、焼却した灰を埋め立てる

  • 「震災がきて救われた」中学生に言わせてしまう日本の現状。教育支援をする大学院生の想い | オルタナS

    「僕は震災で家も流されたし、思い出のある町も流されたし、たくさんのものを失ったけど、それでも震災がきて救われたと思ってるんだよ」 昨日であの震災から1年が経ちました。僕の地元である宮城県石巻市は津波によって壊滅的な被害を受けました。僕も大切な故郷を、幼馴染を、駄菓子屋さんや公園を、思い出のある町を一瞬で奪われました。 僕は今、TEDICという被災地の教育支援団体を立ち上げて、毎週末教員志望の仲間たちと石巻の子どもたちのもとへ訪れ、勉強を教えたり、進路の相談にのったりしています。 10か月間、立ち上げから子どもたちと関わり続けていく中で、刻々と変化していく石巻と、揺れる子どもたちの心のうちに毎週末触れてきました。 この言葉に出会ったのは、8月頃のある避難所でした。ある中学生の男の子に勉強を教えていたところ、ポツリと口にした言葉です。 この男の子は、元々ある事情で学校に通うことができ

  • 地震のリスクを抱き締めて私は東京で暮らし続ける

    今週のコラムニスト:レジス・アルノー 〔2月29日号掲載〕 ニューヨークは眠らない街。東京はじっとしていられない街だ。 1月末に東京大学地震研究所の教授が、東京で「大地震」が4年以内に発生する確率は70%だと発言した。30年以内で98%だという。しかしこのニュースが報道されてもパニックは起こらず、不動産の価格も株価も暴落しなかった。 私が95年に東京へ来た頃は既に、「大地震」が東京を直撃する可能性について盛んに言われていた。私の母親や友人から見れば、私は英雄だった──「東京に住むの? 危険なんでしょう?」。 以来、大きな地震が2回、確率はかなり低いと思われていた地域で起きた。79年以降、日で10人以上の犠牲者が出た地震は、比較的確率が低いとされた地域で起きている。東北もリスクはかなり低いとして、故金丸信は仙台を第2の首都に推薦したではないか! 一方で、私は東京のおかげで人生最高の15年を

    地震のリスクを抱き締めて私は東京で暮らし続ける
  • 海・猫・日記 2011年06月

    今まで「あの日を忘れない」を読んで下さって有り難う御座います。 去年の8月末、今お世話になっている会社の元社長で大好きな叔父さんがガンで亡くなってその後、11月中頃、実家の父が肺炎で亡くなり、そして今回の震災でを含め同級生、数多くの知り合いを亡くしました。 海で見つけた2人の水死体。 人の死についてすごくすごく考えさせられました。 愛もそうです。 今回その死を無駄にしないように、今まで同様、事実をありのままに載せていきますので、2人目の水死体の記事で気持ちが悪くなったら他の楽しい愛のブログを見て下さいね。 「あの日を忘れない」(完) その後も忙しく飛び回っている内に4月12日になり青年の家から支援物資の運ぶ番が来て親友と運ぶことになりました。 午後、少し時間が空いたので沖に浮かべた船に手入れをしょうと海岸にある船外機を借りて湾を出てすぐの牡蠣イカダの固まった残骸の所に白ちゃけた物が一

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