渡辺 崋山(わたなべ かざん)は、江戸時代後期の武士・画家。三河国田原藩士・家老。通称は登(のぼり[注釈 1])、諱は定静(さだやす)。号の崋山ははじめ華山で、35歳ころ改めた。別号は全楽堂・寓画堂など。贈正四位[1]。1839年に幕府によって罰せられた(蛮社の獄)。 生涯[編集] 誕生と苦難の幼少時代[編集] 池ノ原公園崋山幽居跡 [注釈 2] 江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現・東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも
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