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浜口隆一の検索結果1 - 4 件 / 4件

  • 日本初の女性建築家・浜口ミホ設計の住宅が住み継がれることに。継承を支えた住宅遺産トラストに聞いた

    浜口ミホという建築家をご存じだろうか。情けないことに私は知らなかった。存在が知られていなかった彼女の設計による住宅が発見され、継承されることになったと聞き、慌てて調べてびっくりした。浜口ミホは日本で女性初の一級建築士だったのだ。しかも、今では当たり前になっているダイニング・キッチンの普及に多大な役割を果たしたのが彼女。戦後、日本の住宅、特にキッチンを大きく変えた人だったのである。 1915年に中国の大連で生まれた浜口ミホは、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)で家政学を学んだ。その後、当時はまだ女子学生の入学が認められていなかった(!)ため、聴講生として東京帝国大学の建築学科の授業に参加。1939年に修了後、東京文化会館や世田谷区役所などで知られる前川國男建築設計事務所で建築を学び、そこで出会った日本最初の建築評論家である浜口隆一と1941年に結婚。農村建築研究のための北海道滞在を経て

      日本初の女性建築家・浜口ミホ設計の住宅が住み継がれることに。継承を支えた住宅遺産トラストに聞いた
    • ヒアシンスハウスを見る

      立原道造(1914〜1939)は叙情的な詩人としてよく知られているが、24歳の若さで世を去っている。たくさんの詩を残し、多くの人に愛された。 春の風は 窓のところに かへってきて 贈り物のことを ささやいている おしゃべりな言葉で まつたく微笑が 少女の頬に ふかい波を 皮膚の内からおこさせて また 消してゆくようにー それは ためいきにも似て(「窓辺に凭りて」『立原道造詩集』岩波文庫) 立原は詩人として多くの人に愛されたが、職業として目指したのは、建築家であった。しかも、東京帝国大学の建築科に入り、最優秀の賞を取っていた。 立原の1年下には、丹下健三、大江宏、浜口隆一という戦後大活躍する建築家たちがいたが、彼らにとって、立原は常にあこがれの的であった。 その立原が夢に見た自分のための別荘。それがこのヒアシンスハウスである。 立原は身体が弱く、卒業後、石本建築事務所へ入ったが、翌年には結核

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      • 浜口ミホ(ダイニング・キッチン開発)と三淵嘉子(「虎に翼」のモデル) - そういちコラム

        4月12日は、「日本初の女性建築家」といわれる浜口ミホ(1915~1988)の亡くなった日です。 彼女の代表作は、1950 年代に開発され大量につくられた、公団住宅(団地)のキッチンです。 当時の台所は一般に「日当たりの悪い、女中の仕事場」という位置づけでした。しかし当時の最先端である日本住宅公団の設計では、台所は南側で、食事で家族が集う「家の中心」であり、ステンレス製シンクなどの最新設備を備えていました。 この「ダイニング・キッチン」の設計を、浜口は主導しました。その設計は、のちの台所に多大な影響を与えました。現代の日本のキッチンの原型をつくった、といえるでしょう。 当時の建築界は完全な男社会。昔の男性は台所仕事に全く無知だったので、女性建築家で主婦の浜口に、公団の大きな仕事のオファーが来たのです。 彼女の設計方針は、当時の常識とは違っており、反対や抵抗もありました。しかし、懸命に説得や

          浜口ミホ(ダイニング・キッチン開発)と三淵嘉子(「虎に翼」のモデル) - そういちコラム
        • そういちコラム

          4月12日は、「日本初の女性建築家」といわれる浜口ミホ(1915~1988)の亡くなった日です。 彼女の代表作は、1950 年代に開発され大量につくられた、公団住宅(団地)のキッチンです。 当時の台所は一般に「日当たりの悪い、女中の仕事場」という位置づけでした。しかし当時の最先端である日本住宅公団の設計では、台所は南側で、食事で家族が集う「家の中心」であり、ステンレス製シンクなどの最新設備を備えていました。 この「ダイニング・キッチン」の設計を、浜口は主導しました。その設計は、のちの台所に多大な影響を与えました。現代の日本のキッチンの原型をつくった、といえるでしょう。 当時の建築界は完全な男社会。昔の男性は台所仕事に全く無知だったので、女性建築家で主婦の浜口に、公団の大きな仕事のオファーが来たのです。 彼女の設計方針は、当時の常識とは違っており、反対や抵抗もありました。しかし、懸命に説得や

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