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sino-japanese 意味の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • ポーツマス会議全権随員・本多熊太郎の「講和外交秘話」を読む~~日露戦争に関するGHQ焚書2

    日露戦争に関するGHQ焚書リストの中に、時事新報社 編『日露戦争を語る. 外交・財政の巻』(昭和10年刊)という本がある。日露戦争の重要な交渉や会議などに関わった人物が、当時のことを回想して記した文章をまとめた本なのだが、簡単に目次と筆者の当時の経歴を列記すると 「戦前外交」・・・栗野慎一郎(当時駐ロシア公使) 「三十年前の非常時財政」・・・阪谷芳郎(当時大蔵次官) 「募債苦心談」・・・深井英五(当時日本銀行秘書役) 「ロシアの背後より戦争を見る」・・・秋月左都夫(当時スウェーデン公使) 「講和外交秘話」・・・本多熊太郎(当時講和会議全権随員) 「ロシアから日本を観る」・・・ローゼン(当時ロシア駐日公使、後ポーツマス会議全権) で、いずれも興味深い話ばかりである。 冒頭で本多は、ポーツマス講和会議の特異性について触れている。ちなみに、文中の「欧州大戦」とは「第一次世界大戦」、「小村さん」は

      ポーツマス会議全権随員・本多熊太郎の「講和外交秘話」を読む~~日露戦争に関するGHQ焚書2
    • 江華島事件と李氏朝鮮の開国

      この地政学上の問題は明治時代だけでなくわが国のいろんな時代の安全保障について絡んでくる話であるのだが、わが国の幕末から明治初期にかけて、李氏朝鮮の実権は国王(高宗)の父・大院君によって握られており、内には武断政治を布き、外には排外鎖国主義を固執していた。 例えばこんな事件があった。 1866年にキリスト教徒が大量に虐殺され九人のフランス人宣教師が処刑されたことから、フランスの極東艦隊が八百名程度の要員で首都・漢城に向かい江華島中心部を占領したものの、朝鮮軍の頑強な抵抗に遭い、首都封鎖・包囲に失敗し敗走した事件があった (丙寅洋擾:へいいんようじょう)。 また同年に米国商船のシャーマン号が襲撃され、乗組員全員が虐殺される事件があったことから、1871年に米国は同事件への謝罪と米韓の通商を求めてアジア艦隊の朝鮮派遣を命じている。米軍は二日で江華島の草芝鎮、徳津鎮、広城鎮を制圧(辛未洋擾:しんみ

        江華島事件と李氏朝鮮の開国
      • GHQが焚書処分した日中戦争に関する本~~本多熊太郎『欧洲情勢と支那事変』

        「支那事変」は、昭和十二年(1937年)七月七日の盧溝橋事件から始まった日中紛争を意味するが、当初は「北支事変」と呼ばれ、戦域が拡大してから「支那事変」あるいは「日支事変」と呼ばれるようになり、戦後は「支那」という言葉は避けて「日華事変」と呼ばれるようになったが、1970年代からは「日中戦争」と呼ばれるようになっている。これほど読み方の変わった紛争は珍しいと思う。 『支那事変聖戦写真史』忠勇社 昭和13年刊 より(コマ番号102/111) このブログで、GHQが焚書処分した書物のうち、外国に関するものでは中国に関する本が圧倒的に多いことを書いた。その中でも日中戦争に関する書物は、本のタイトルに「支那事変」「日支事変」「北支事変」を含むものだけで133点もある。 この紛争に関して、GHQがこんなに多くの書物を焚書処分したということは、戦後の一般的な歴史叙述には、これらの書物に書かれていた真実

          GHQが焚書処分した日中戦争に関する本~~本多熊太郎『欧洲情勢と支那事変』
        • 日露戦争に騎兵として戦った由上治三郎の従軍手記『鉄蹄夜話』~~GHQが焚書処分した明治期の著作5

          由上治三郎という人物については陸軍の軍人で第一軍の騎兵中尉として日露戦争で戦い、戦後に大尉になった人物であることぐらいしかわからないのだが、由上の唯一の著作『鉄蹄夜話』は明治四十四年に刊行された古い本である。 緒言(まえがき)に由上は、「昨夏、予病を得て善からず。此時思えらく、最後の呼吸の停まらぬ内に、早く従軍日誌を整理し、之を予と辛酸を倶にせし戦友、並びに遺族に頒ち、永く枕戈沙場の身の上を紀念せむと、ここに早急筆を執りしもの即ち此の書なり」と、死ぬまでに自分の体験した戦記を纏めて戦友と遺族に頒布したいとの思いで著した本であることを書いている。 原稿を書き上げると由上の健康が回復したのだが、今度は敬文館館主から、この本の公刊を何度も説得されたという。由上は原稿を敬文館主に譲与することにしたのだが、この時彼が提示した二つの条件が興味深い。 「一、予の指定する戦友並び遺族に、製本一部宛てを寄贈

            日露戦争に騎兵として戦った由上治三郎の従軍手記『鉄蹄夜話』~~GHQが焚書処分した明治期の著作5
          • 水雷艇長として日本海海戦に従軍した水野広徳の『此一戦』~~GHQが焚書処分した明治の著作6

            水野広徳は明治八年に愛媛県の三津浜(現松山市)に生まれ、幼少期に両親をなくして伯父に育てられたのだが、伯父の父の妻は秋山好古・真之兄弟の親戚だったという。松山中学を経て江田島の海軍兵学校を卒業し海軍の軍人となり、日露戦争では第四十一号水雷艇長として、旅順港閉塞作戦や黄海海戦、日本海海戦に従軍した。 日露戦争終戦後は軍司令部戦史編纂部で『明治三十七八年海戦史』の編纂に従事し、明治四十四年に日本海海戦を描いた『此一戦』を著してベストセラーとなる。 第一次大戦をでは欧米諸国を私費で視察し、次第に反戦・平和論を説くようになり、大正十年に東京日日新聞に連載した「軍人心理」で書いた内容が海軍で問題となって謹慎処分を受け、その後退役して評論家としての道を進んだという。 今回は水野の処女作である『此一戦』の一部を紹介したい。この作品はその後何度か復刊されたり、文学全集に収録されていて、GHQが焚書処分した

              水雷艇長として日本海海戦に従軍した水野広徳の『此一戦』~~GHQが焚書処分した明治の著作6
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